昨今感じる既視感
最近、ニュースを見ていると、妙な既視感に襲われることがあります。
ホルムズ海峡封鎖の長期化で、ナフサを原料とする合成樹脂製品がじわじわ不足し始めている。医療材料から日用品まで、「次回納品未定」「在庫限り」という声が現場では現実味を帯び始めているのに、テレビでは「来年分まで調達できている」「過度な節約は不要」「これまで通り消費活動を続けてほしい」と、妙に明るい言葉が繰り返される。
もちろん、政府にも事情はあるのだろう。買い占めやパニックを防ぎたい。消費の冷え込みや株価暴落を避けたい。経済というものは、数字より“空気”で崩れる部分がある。
しかし、現場で不足が始まっている時に、「不足していない」と言い続けられると、人は安心するより先に、「これは現実を説明しているのか、それとも空気を演出しているのか」と感じ始める。
こういう時、私はどうしてもある言葉を思い出してしまう。
「大本営発表」である。
戦局が悪化し、敗戦色が濃厚になっても、「皇軍各地で転戦転勝」と威勢の良い発表が続いた。もちろん当時にも、国民の動揺を抑え社会秩序を維持したいという事情はあったのだろう。しかし、現実と発表の乖離が広がるにつれ、人々は“発表”そのものを信じなくなっていった。
歴史というのは、同じことを繰り返すわけではない。しかし、ときどき驚くほど似た“空気”をまとって現れる。
現政権のトップの発言を聞いていると、単なる強気の経済政策以上のものを感じることがある。「国民には不安より安心感を与えるべきだ」「多少現実とずれても、国家として一つの方向を向かせるべきだ」という発想である。
それは一歩間違えると、「国のために空気を乱すな」という思想につながりかねない。
さらに私が危惧するのは、その延長線上に、戦前的な国家観への郷愁が垣間見えることである。天皇を精神的支柱として強く押し立て、国家への忠誠や結束を重視し、軍事力を国家の誇りとして前面に掲げる――そうした方向性への憧れが、その言動の端々から感じられてならない。
もちろん、防衛力の強化そのものを否定するつもりはない。現実の国際情勢を見れば、安全保障を軽視できないことは明らかである。しかし、軍事力を語る時に最も重要なのは、「それを誰が、どのような国家観で運用するのか」という点である。
国家が国民を守るのか。
それとも、国民が国家の空気を守ることを求められるのか。
その境界は、案外静かに曖昧になっていく。
歴史を振り返ると、多くの場合、人々は自由を一気に失ったのではない。まず「不安を口にしない空気」が生まれ、次に「疑問を呈する人」が嫌われ、最後に「同じ方向を見ること」が善とされた。
だから私は、「大丈夫です」「心配ありません」という言葉を聞くたびに、逆に少し身構えてしまうのである。
もっとも、歴史は皮肉だ。
「まだ十分ある」と発表され始めた頃、人々は静かにトイレットペーパーを買いに走る。国民というのは、政府発表よりも、近所のドラッグストアの棚を信用する生き物らしい。