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クリニック西川

2007年6月

疲労と疲労感

サラリーマンの月曜病(ブルーマンデー症候群)という名前を聞いた方は多いと思います。休日明けの月曜日の朝になると体がだるくて、気分が沈み、会社に行く意欲が湧かない。こういう症状を月曜病と呼んでいるようです。

こういう人達の多くは土、日の休日の過ごし方に問題があります。「疲れた、疲れた」といって、休日の二日間をごろごろ寝ころんで過ごしていることが多いのです。

たしかに、疲れているのでしょう。 しかし、この「疲れ」は本当の「疲労」でしょうか。

「疲れた」、「だるい」と言って私のクリニックを訪れる方の90%以上が知能労働者の方です。一日の大半を、椅子に座ってキーボードを叩いたり、はんこ押したり、会議で発表したりといった作業や、苦手な上司や顧客にいやいや頭下げて過ごしているだけなのです。

営業活動で移動することもあるでしょうが、その際もたいていは車などを利用していて、自分の足で走り回わるわけではありません。

持つものはせいぜいボールペン。指先と目と耳と舌とお辞儀する時の腰と首の筋肉だけを集中的に動かしているだけです。

つまり、全身の筋肉を酷使した結果である本当の疲労状態ではないのです。それなのに、ご本人はまるでフルマラソンを走りぬいた後のように、全身が疲れたと感じていらっしゃいます。

こういう人達の「疲れ」は「疲労」ではなく、「疲労感」なのです。そしてこの疲労感は脳の錯覚によっておきてきます。

この疲労感を生む原因は、実際には身体を酷使する運動ではなく、神経系統、なかでも精神機能だけを酷使する「気疲れ」が大半であるにもかかわらず、脳は身体全体が疲れたと錯覚してしまうのです。

それでは、なぜ脳は精神的な疲労を身体の疲労と錯覚してしまうのでしょう。実は、この錯覚は脳に責任があるわけではないのです。私たち現代人、とくに都市に住み、知能労働をしている人達の生活のほうが異常なのです。

地球誕生は約46億年前。その地球に初めて生命体とよべるもの(菌類)が生まれたのが約38億年前。それから気の遠くなるような長い年月をかけて、突然変異や進化をくりかえしてやっと私達人類、ホモサピエンスが誕生したのは約20万年前と言われています。

地球誕生から現在までを1年のカレンダーに表しますと、生命体の誕生は3月ころ、11月になってやっと動物と植物が登場、私達人類はなんと12月31日、大晦日の午後7時頃になってやっと姿を現したのです。生物の進化には長い時間を要するのです。

そして、私たち人類はこの20万年の大半を狩猟、農耕によって生きてきました。言いかえれば、私達人間の身体は狩猟や農耕をする。また、その目的のために必要な道具を作り出すのに都合よくできているのです。

日の出とともに身体を使って働く。恐ろしい外敵に出会ったら、全力で逃げるか戦う。夜は安全なところにじっと身を潜めて、睡眠という状態に入る。

私達の身体は、脳やさまざまなホルモン系も含めて、そういう生活に適応するようにできているのです。

ところが、たかだか200年前におこった産業革命以降、私達のライフスタイルは急激に変化しました。しかもその変化は加速度的です。

今や、都市では太陽の動きなんかに関係なく、一日中いつでも動いていられます。そして、先ほどお話したように、身体をほとんど使わないで、神経系だけを使うようなライフスタイルになっている方が急激に増えたのです。

ところが20万年前にできあがった身体の仕組みは、たった数十年でそんな異様な使われ方に適応し、進化することは不可能です。糖尿病をはじめ、生活習慣病といわれている現代病は、身体の仕組みに合わない不自然な生活を無理やり強制されていることが大元の原因だと言えます。

脳にしたって、まさか身体をそんな風に使われるなんて想定してできていません。ですから脳は神経系だけの酷使を身体が疲れていると錯覚してしまうのです。

では、どうすればいいのでしょう。身体の仕組みに合った生活パターンに戻すことが根本解決です。みんなで第一次産業に転職しましょう。とはいっても、そんなことは現実的には不可能です。

個人的に今日からでもできる現実的な対応策は、仕事以外の時間を使って、なるべく身体本来の機能を使ってあげることだと思います。つまり、休日は普段使わない身体の筋肉をできるだけ動かすことが大切だと思います。

肉体労働をしていないのに「疲れた、疲れた」と思っている人ほど、身体は本当の疲労を必要としているのです。

休日はごろごろせずに、汗をびっしょりかくくらい、スポーツをしましょう。

肉体の本当の疲労は、頭の疲労感を軽くしてくれます。日曜日の晩、ぐっすりと眠って、爽やかな月曜日を迎えることが得策ではないでしょうか。

相性

心身の不調をひきおこすような悪いストレスとはどんなものでしょうか。

身内が突然亡くなったというような、突然襲われる強いショックであることもあります。しかし、いくら強くてもそういう一時的なショックは、たいていの場合には、その人のもっている自然治癒力と「時間」という至高の妙薬によって、私のような医師がかかわらなくても元気をとりもどされる場合がほとんどです。

自然治癒力と「時間」だけではどうにもならないで、私達のような医療機関の門をたたかざるを得ない人達が受けている悪いストレスの多くは、そんなに強くはなくても慢性的に続くストレスが多いようです。

この慢性的に続く悪いストレスの代表が人間関係に関するストレスです。前回のシリーズでお話したように、人間は高度に社会化された生き物です。ですから、自分の所属する組織や社会の中でスムースな人間関係を保っていけないと、とても悪いストレスになります。

職場のストレスから私のクリニックを受診される方にだけかぎって考えても、仕事の内容そのものが問題であるケースは多くはありません。大半の方が職場での人間関係上のストレスが不健康の要因になっています。

かなりきつい仕事でも、人間関係の風通しがいい職場だと、なんとかやっていけるものです。またそういう職場では、おたがい気心がしれているので、過労でぶっ倒れる前に、上司や、先輩、同僚が気付いて、助け舟を出してくれます。

業務そのものはさほどの負担でなくても、上司、先輩、同僚、部下とうまい関係がもてない。しかし、うまくやっていかなければならない。こういう状況が長く続く時に、やっかいな心身の症状が現れてきます。

さて、ここで簡単な質問をします。もしあなたが100人の人と出会ったとしたら、100人全員に好感をもつでしょうか。そんなことはないと思います。逆に、100人全員に対して苦手意識を感じることもないのではないでしょうか。なんとなく好感をもつ人と、ちょっと苦手だなと感じる人に分かれるはずです。

この感覚はお互いさまです。あなただって、100人全員から好かれることはありえません。また、あなたがかなり癖の強い偏屈だとしても、100人全員から嫌われることも不可能です。

そして、うまくできていることには、こちらがなんとなく馬が合うなと感じている人は、相手もあなたに対して話しやすさを感じていて、こちらがなんとなく苦手だなと感じている相手もあなたと波長が合わないと感じていることが多いのです。

人と人とが接すると、立場、損得、利害を超えて、必ずさっき言った、なんとなく合う、なんとなく合わないという感覚を感じるはずです。この感覚を「相性」と言います。

広辞苑で「相性」を引くと、「共に何かをする時、じぶんにとってやりやすいかどうかの相手方の性質」となっています。「馬が合う」とか「波長が合う」と言ってもよいでしょう。

相性とは何で決まるのでしょうか。おそらく、親から遺伝的に受け継いだ素因と成長過程で受けるさまざまな体験によって形作られる人格がおもな要因だとは思いますが、外見(表情も含めて)、声質、そぶり、話すテンポ、嗜好などいろいろな要素が含まれているように思います。

人間の脳はそういった各種の情報を一瞬のうちに総合的に処理して、相性を感じるのだと思います。ですから、相性はどちらかが良い―悪い、正しい―間違っている、偉い―偉くないなどとという単純な尺度で測れるものではありませんし、努力したからといって変わるものでもありません。その人その人の個性そのもので決まってしまうものなのですから。

そして、この相性こそが人間関係を築き上げて、その関係を長い期間続けていく上で、もっとも決め手となる要素であるように思います。

先ほど述べた、人間関係上のストレスでまいってしまう人の多くは、相性が悪い相手を、自分の努力によって、なんとか相性のよい相手に思いこもうと無駄な努力をして、疲れ果ててしまっています。

嫌いな食べ物を好きになれと言われても、無理なように、相性が悪い相手をどんなに好きになろうとしても、骨折り損のくたびれもうけです。むしろ、自分自身をごまかさずに、好きなものは好き、苦手なものは苦手だということをはっきりと自覚するところから出発するほうが賢明です。私達一般人は全国民から好かれる必要はまったくないのです。

とは言うものの、プライベートではない、会社などの組織の中では相性の悪い上司や同僚ともうまくやっていかなければ、生きていけません。では、どうしたらよいのでしょう。

嫌いな人に対してもにっこり笑って、相手を不快にさせない態度を「演じれば」よいのです。本当に尊敬しよう、良いところを見つけよう、好きになろうと感情を操作する必要はないのです。嫌なやつは嫌なやつと思ったままでよいのです。ただ、その感情と表情や態度を切り離すテクニックを身につければよいのです。

嫌いな食べ物だって、好きになることはできなくても、美味しそうなふりをして食べることはできるでしょう。テレビの料理番組でタレント達がやっているじゃないですか。

みんなで役者を目指しましょう。苦手な上司や同僚に好かれる良いサラリーマンになることは大変ですが、一日8~10時間の間「良いサラリーマンの役」を演じる役者をやるのはそんなに難しくないですよ。また、今の自分は役を演じているんだと思うだけで、受けるストレスだって大分違ってくるはずです。

役者さんは、悲しくなくたって涙を流し、嬉しくない時だって笑いをふりまいているじゃないですか。給料も仕事をした報酬なんて考えずに、自分の名演技に対するギャラだと思えば多少のことには耐えられるはずです。

プライベートな人間関係ならば、相性の悪い人とはなるべく付き合わなければよいのです。お互いその方が幸せなはずです。

本当は相性の合わない人なのに、「でも、あの人にもこんな良いところもある」なんて、自分の心をごまかして、好きになろう、好かれようなんてしても、自分のエネルギーを消費して相手からはマイナスのエネルギーを押し付けられるだけです。具合が悪くなるのも当たり前です。

相性の合う人とおおいに付き合って、プラスのエネルギーを与え合って、どんどん元気になりましょう。

産む装置、産ませる装置(5)

今までお話したように、種の保存が生物に背負わされた最大の責務で、その目的のためにメスとオスという二つの性に分化した。そして、それぞれが機能を分担して、多様性をもった種を脈々と継続しようとしていることに間違いはないと思います。

ただし、生き物はその種ごとに体の構造も生息環境も違います。ですから、同じ目的ではあっても、それぞれに異なった生き方や繁殖方法を選んでいます。自分たちの種にとって有利になるような工夫をして生き、新たな生命を生み出しているのです。

簡単な体の構造の生物は「下手な鉄砲も数うちゃあたる」方式が多いようです。膨大な数の次世代をつくりだして、大半は死滅しても、そのうちの何パーセントかが生き残ってくれればよしです。

体の構造が複雑な高等動物とよばれている生き物になりますと、「一発必中」方式を採用するようです。すなわち、繁殖によって生み出す個体数は少ないけれど、その貴重な次世代を高い確率で一人前になるまで守り、育てる努力、工夫をします。その工夫のひとつが社会をつくることです。

数年前、南極大陸で生きる皇帝ペンギンのドキュメンタリー映画がヒットしました。零下40℃にもなる極寒、しかも強風の吹きすさぶ、生命にとって極限と思われる冬の南極で、4ヶ月もの間、まったく食事をとらずに卵を守り、温めつづけるオスの皇帝ペンギンたちの群れを観て、感動した方は多いと思います。

がんばるのはオスだけではありません。メスは全幅の信頼をよせた自分のパートナーに卵を託すと、片道100kmにもおよぶ遠い海をめざして、自分と、やがて生まれてくるであろう雛のための食料を確保するために、遠い旅に出るのです。

映画の解説を延々としてもしょうがありませんから、ここらへんで皇帝ペンギンの話はおしまいにしますが、ともかく皇帝ペンギンは南極という苛酷な環境の中で遺伝子を継承し、種を保存するために、社会をつくり、受精、産卵後のメスとオスの役割分担をきちんと決めて行動する道を選んでいるのです。もちろん、ペンギンの社会は本能にもとづいた原始的な社会です。

ペンギンにかぎらず、社会をつくって生きていく動物の場合には、オスは、ただただ精子をふりまくだけで、役立たずの無責任な存在ではなく、メスも優秀なオスをひっかけて自分の卵子に優秀な遺伝子を獲得して、生み育てるだけの存在ではないのです。

それではいよいよ私たちヒトという生物について考えてみたいと思います。ヒトは哺乳類の中でも、とくに優れた身体能力をそなえている種ではないにもかかわらず、今のところ地球上のいたるところに生息し、他の種を圧倒する地位を獲得しています。なぜなのでしょう。そのキーワードはやはり「社会」にあると思います。

一般的にヒトの繁栄は、2足歩行をするようになった結果、前肢であった手を歩行以外の機能に使うことができるようになるとともに、大脳が発達。そしてその発達した大脳と器用な手の動きによって、道具を使うことを覚えたことにあると言われています。

もちろんそういったことが人類の発展にとって、とても大切な基本的な要因であることは言うまでもありません。しかし、2足歩行だけならレッサーパンダだってできますし、類人猿が巧妙に道具を使うことも知られています。私は、人類がここまで繁栄した秘訣は、発達した大脳を利用して社会的生物として生きる道を選んだことが重要ではないかと考えています。

ヒトは複雑で巧妙な社会をつくり、その社会の中でオスもメスも繁殖以外のさまざまな役割を担い、お互いに協力しあいながら生きることによって、外敵からの脅威に対抗し、環境の変化に適応してきたからこそ、今のような繁栄があるのだと考えます。

言い方をかえれば、ヒトは社会的な生物として生きていかざるを得なかった。社会の中で寄り添って生きてこなければ、現在のような隆盛をみることができなかったのではないでしょうか。

そうせざるを得なかった理由は、ヒトの生まれたての赤ちゃんが動物の一般常識からみると、きわめて未熟な段階で生まれてくること。さらに、成熟までのスピードが遅いために、独り立ちして生きていけるようになるまでに長期間を必要とすることにあると思います。

馬は生まれて数時間たつとひとりで歩けるだけの段階で生まれてきますし、ヒトよりも長寿の象だって、ヒトみたいに20数年たっても、まだ親の脛かじって自分で餌探せないやつなんていません。

ヒトは一回の繁殖で多くの個体を産むことができずに、しかも生まれてきた子供の成育に長期間を要します。遺伝情報をつぎつぎと新しい世代に交替していくという点ではとても不利な生き物なのです。

繁殖という観点からみて致命的とも思える、こういう欠点を補って、ヒトという種を継続していくために、私たちは家族、血族、部族、村、都市、地域社会、職域、友人、国家、信仰を通しての共同体などさまざまなコミュニティをつくり、それらを有機的に関連させて巧妙に生きていかざるをえなかったのではないでしょうか。

こう考えると、社会はヒトの場合、「種にとってのゆりかご」だと言えるのではないでしょうか。種として遺伝子を継続するためには、個人個人の繁殖もさることながら、それぞれの社会の中での役割をはたすことによって、社会と言うゆりかごをじょうずに機能させていくことが重要になります。

ですから、ヒトという種を保存、継続していく上では、女も男もたんに「産む装置」と「産ませる装置」というだけの存在ではないのだと思います。

産む装置、産ませる装置(4)

前回は、自分が所属する「産ませる装置」の立場からみた場合、繁殖に至るまでの行動原理のほとんどが種をこえて共通していることを説明しました。では、「産む装置」であるメスの行動はどうなのでしょう。
メスの行動、とくに人間の女性の行動心理は私にとっては未だに不可解な謎の部分が多く、この年になっても冷静に判断できず、誤解をくりかえし、ふりまわされていますので、あまり偉そうな解説はできません。ですから、ヒト以外の動物たちのメスの行動を観察することによって推しはかるしかてだてがありません。
ヒトと一部の霊長類を除くと、一般的にメスは一定の時期にしかオスの生殖行動を受け入れようとしません。その期間を発情期と言います。この発情期は一年のうちの一定期間しかないのです。生殖行動をするかしないかの決定権はメスが握っているのです。オスはメスの許可がおりるのを今か今かと待ち続けているしかありません。
実は恥ずかしいことに最近まで、発情とはオスのほうにおこる現象だと思っていました。数年前に、知人の猫の専門家の方から、発情とはメスにおこる現象であることを教えられて、目から鱗が落ちた思いがしたのです。
というのは、息子が小さい頃、ボーイスカウトにお世話になったことがありました。父親である私もリーダーとやらにかり出されて、2年ほどボーイスカウト活動をしたことがあります。
そのボーイスカウトの標語の一つに「備えよ常に」ということばがありました。私はあさはかにもそのことばを、いつ遭遇するか分からない事故や天災に対して不断に備えていなさいと言う意味の標語だとしか理解していなかったのです。
しかし、発情がメスにあるという事実を教えられた時に、この標語がじつに深い意味を持っていることに気がつきました。ボーイスカウトでは事故や天災に対してだけではなくて、幼いときから、男としての女性に対する心構えをも教えていたのです。「備えよ常に」。
ボーイスカウト関係者の方々ごめんなさい。冗談はさておき、発情期でない時のメスはオスとおなじように自立した生活をしています。集団生活をする動物はオスとメスに多少の役割の違いはあるものの、基本的には自分自身が生きていくための空間と水や食料を確保することに専念しています。
発情期になるとそれぞれの方法で「もういいよ」とオスに遺伝子を交換する時期になったことを知らせます。それを察知したオスはこの日のために鍛えておいた得意技を駆使して、自己アピール。なんとか自分の遺伝情報を受け取ってくれるお相手を得ようと懸命の努力をします。
自分の強さを誇示するために胸を叩いて、歩き回るゴリラ。色鮮やかな羽を広げて、自分の美しさを踊りで表現する鳥。巣作りのうまさで認められようとする者。美声で愛の歌を絶唱する者。種によってじつにさまざまな求愛の方法がとられます。
ここでも相手を選ぶ決定権を握っているのはメスのほうです。オスがいくら懸命な求愛のサインを送っても、そのメスにとって好みでなければ、あっさりと断られてしまいます。
種の保存はあくまでメスが主導権を握っているのです。以前、染色体の形からいってオスのほうはできそこないみたいなものと言いましたが、生命の主導権はやはりメスにあるようです。パワーの点でもメスのほうが勝っているように思います。
遺伝子の交換、すなわち受精が行われた後の両者の生きざまを見ると、メスとオスのパワーの差がはっきりしてきます。
多くの生物の場合、遺伝情報提供役のオスは提供後の存在価値はほとんどありません。極端な例としてはカマキリのオスのようにメスの産卵のための栄養として食べられてしまうものもいるくらいです。
一方、遺伝情報受領型生物であるメスは受精後、次代を外界環境に耐えられうる段階にまで発達させるという重要な仕事を果たさなければなりません。
哺乳類を初めとして胎性の動物では、胎児という新たなる命を自分の体内で、外界のきびしい環境に耐えられるまでに成長させなければなりません。
そのために、これ以上安全で快適な場所はないと思われる子宮の中で、胎盤という組織を通して、わが子に何ヶ月も酸素や栄養を補給し続けます。まさに、わが身を削って、新しい生命を育むのです。
にもかかわらず、大きくなった胎児はやがて恩知らずにも「こんな狭いワンルームマンションはもういや、お庭のある広い一軒家がほしいわ」とわがままな要求を主張します。母はその要求を快く受け入れて、自分の死の危険を賭けて出産という一大イベントを敢行します。メスはパワフルなわけです。
哺乳類の場合には、出産後もしばらくの間は汗腺を特殊に発達させた乳によって、豊かな栄養と免疫力をわが子に補給します。オスの冷や汗なんか何の役にも立ちません。
さらに、野生の動物の世界を見ると、子供を守るために、自らは傷だらけになりながらもあらゆる外敵と戦います。ライオン、象、シマウマ、イルカ等々。子育てをするメスの姿には種をとわず、神々しいばかりの美しさを感じてしまいます。周囲から賞賛されようとか、将来子供に感謝されたいなどと言う不純な思いをともなわない無償の愛の行動だから美しいのでしょう。
ここまで読んでくると、受精後のオスはいかにも情けない無用の存在のように思われるでしょう。たしかに、下等生物では受精後のオスはまったく必要のない存在です。そこで寿命をまっとうするか、次のメスに遺伝情報を伝えるべく、放浪の旅に出るかしかありません。
しかし、複雑な社会を構成して生きている高等動物の世界では受精後のオスにも立派な役割が待っているのです。すなわち、生きる意味が与えられているのです。男性諸君安心したまえ!
社会的な生き物としてのヒトの性の役割については次回お話します。
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