投稿日:2013年12月9日|カテゴリ:コラム

久しぶりに電車に乗ったら、車内放送がとても気になった。「ドアに手を挟まれないようご注意ください」、「お荷物をドアに挟まれないように、お荷物は前に抱えてご乗車ください」、「優先席は身体のご不自由な方にお譲りください」、「優先席の近くでは携帯電話の電源をお切りください」のほかに、他路線の乗り換えの案内、あれこれに対する警戒の案内などなど。あっという間に次の駅が見えてきた。と思ったらまたもや、次の駅名を告げて、お出口は左だの右だのしゃべりだす。
先日ヨーロッパに行ったせいもあって、よけいに過剰なアナウンスが気になった。ヨーロッパではほとんど車内放送はない。場所によっては発車の合図もない。電車が止まるとドアが開き(乗客が自分でドアを開く車両も少なくない)、降りる客は降車駅を自分で確認して各自降りる。客が乗り終るとすっとドアが閉まって、そのまま発車してしまう。すべては自己責任。
それに比べて、日本の交通機関はなんと親切なのだろう。まるで幼稚園の送迎バスみたいだ。旅人に優しい、まさに「おもてなしの国」の面目躍如だが、そこに住んでいる人間には相当過保護すぎるのではないだろうか。
車内放送に限らず、人のたくさん集まるの場にいると禁止行為やお願いごとを説明するアナウンスがひっきりなしに流れる。アナウンスだけではない。巷はやたらと、ことわり書き、説明書き、お願い書きが氾濫している。トイレに入れば、「もう一歩前に進んでください」とか「トイレを綺麗に使いましょう」。ゴルフ場の浴場には「体をきれいにしてから湯船に入ってください」。見ているだけでうっとおしい。

なぜこんなに当たり前のことをくどくど説明ばかりしなければならないのだろうか。湯船に入る前には体を流さなければいけないことは常識であり、言わずもがなである。言わずもがなをいちいち事細かにお願いしたり注意したりしなければならないのは、常識外れの行動をする人間が少なくないからであろう。そういう輩に限って、後から注意すると「そんなことどこにも書いてなかった」と言い訳をする。だから壁が注意書きだらけになってしまうのだ。
ところで、常識とは普通、一般人が持ち、また持っているべき知識と理解されているが、この一般的知識の他に一般人が持ち、また持っているべき理解力、判断力、思慮分別をも含む。
インターネットが普及して知識面では多くの人が以前よりはるかに膨大な量を持つようになった。本来専門的と思われる知識も一般人が入手できるために、一般的知識と専門的知識の境界が不鮮明になったかのようにも見える。
ところが知識だけを頼りに行動するようになり、知識を駆使する理解力、判断力、思慮分別が反比例して劣化したのではなかろうか。膨大な知識を羅列して記憶するだけで、系統的な知識体系になっていないので、事柄を基に敷衍して考えることができない。要するに馬鹿。この手の馬鹿が増えたために、従来「言わずもがな」であったことをいちいち言って聞かせないと分からなくなってきているように思うのは私だけだろうか。
ずっと昔、日本人はアメリカの商品説明が膨大なこと嘲笑っていた。その愚かな商品説明書の象徴として挙げられたのが電子レンジの説明書。さまざまな注意書きの中に「ネコを入れてはいけない」と書かれていた。実際に濡れたネコを乾かそうとして電子レンジで焼き殺してしまった人が、「説明書にネコを入れてはいけない」と書いていなかったとして製造会社を告訴し、勝利したことから書き加えられた。
電子レンジで猫を乾かそうとする方が非常識なはずが、非常識な連中が多いために説明しなければならなくなった。これを認めれば次は「犬は書いていなかったから犬を乾かしたら死んでしまった。損害賠償しろ」という馬鹿が出てくる。そうなると、また「犬を入れてはいけません」という注意書きが増える。社会が馬鹿に迎合すると説明書はどんどん厚くなってしまう。

賞味期限も常識を持たない馬鹿が多くなったための過保護表示だ。煎餅やクッキーなどは賞味期限が過ぎたって十分に食べられる。一方、卵焼きなんかの調理食品は季節によっては賞味期限内でも要注意だ。
賞味期限切れの食品をオートマティックに捨ててしまうおかげで、我が国では年間に500~900万トンの食べられるものが廃棄されているという。世界にはまだ飢え死にする人がいるというのになんとも罰当たりなことだ。
昔のように製造年月日だけを記載して、その後は消費者の自己判断に任せる方がよいと思う。素材や調理法、色合いや匂いなどから食べられるものか否かを判断するくらいの常識的判断は子供のうちに親が教え込んでおいて然るべきだ。

なんでもかんでも説明を求めるのは自分が馬鹿であることを曝け出している。また、それに応えて何でもかんでも説明するということは民衆を馬鹿とみなしているに他ならない。
日本人はいつの間にこんなに馬鹿な国になってしまったのだろう。親がお受験技術だけに血眼になって、家庭で、生きていくために必要なイロハを教えることを放棄したからだと思う。
社会で生きていくために必要な最低限の常識と、他人への挨拶の仕方、自分で物を考える習慣を子供の身に着けさせるのは親の最大の義務だ。この義務をきちんと果たしていきさえすれば、きっとまた、日本人は賢く大人になっていく。そして言わずもがなが復活するに違いない。

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