投稿日:2013年9月2日|カテゴリ:コラム

殺人事件の報道を観ていつも抱く違和感がある。それは、被害者が必ず、明るく優しい人格者ということだ。先日同級生が被疑者として逮捕された、山形県酒田市で起きた大学生殺人事件の場合もそうだ。被害者は、弓道が上手で明るく、責任感が強く、誰からも好かれる人柄だったそうだ。
交通事故でも、規模が大きかったり、内容が悪質であったりすると、被害にあった人の人格が報道される。その時紹介される人柄は判で押したように、「誰からも好かれる明るい人」。誰が見ても、殺されて当然と思えるほどの極悪人の被害者がいてもよさそうなものだが、どうやら、お釈迦様のような人格者でないと重大事件の被害者にはならないようだ。
転じて、被疑者の人柄は「暗い」、「怒りっぽい」、「挨拶もしない」等々、想像通りの人格破綻者として紹介される。
暴行や殺人などの重大事件を引き起こす人が人格的に大きく偏っているのは当然かもしれないが、被害者が全員善い人と言うのは俄かに信じがたい。
ではなぜ、こんなバイアスのかかった報道をパターンが常道化しているのだろう。それは、この型通りの報道をする方が、視聴者が安心するからではないだろうか。実際の犯罪とは自分たちの身の回りでいつ起きても不思議ではないのだが、その現実をありのままに伝えると、多くの人が「明日は我が身」と不安になる。だから、三流小説のように、極悪人が非現実的な善人を生贄とする行為として描くことによって、犯罪を非日常的な出来事として感じさせ、安心させようとしているのだと思う。ドラマ「水戸黄門」がいつの時代も愛される理由もそこではなかろうか。
私は仕事柄、多くの人と出会い、その人柄の奥の方に接する機会がある。その結果、現実の人間は、一部の例外を除けば、「水戸黄門」に登場するような真っ白な人もいなければ真黒な人もいないとの結論に達した。ほとんどの人がグレーなのだ。グレーな人同士がぶつかり、そこで犯罪が生まれる。ちょっと間違えば被害者と加害者の立場が逆転していたかもしれない事件が少なくないはずだと思う。
こういう現実を見せずに、すべてを視聴者の想像しやすいドラマのように仕立ててしまうことが、現代人を未熟で、いつまでも幼稚にさせている一因のように思える。
もっと深刻な問題は裁判員裁判への悪影響だ。裁判員に選出されてからは、裁判所から提出された証拠以外の物から判断してはいけないとされてはいるが、それ以前に観てしまった報道から受ける偏見を拭い切れるものではない。
極悪人が善人を殺したという図式が叩き込まれてしまった脳で、いくら証拠物を公平に判断しようとしてもそれはなかなか困難な作業と言うものだ。この観点からも、報道の在り方を早急に改善する必要がある。

これまでの報道を信じるならば、嫌われっこ世に憚る。犯罪被害者にならないためにはなるべく人から嫌われるいやな人間でいる方がよいということになる。私は今でも相当嫌味な人間だが、これから先も犯罪に巻き込まれないために、もっと嫌われ者になる努力をしなければならないと思っている。

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