投稿日:2013年8月26日|カテゴリ:コラム

私たち戦後っ子(いつの間にか爺だが)は、GHQ指導の下にレールを敷かれた義務教育の中で「民主主義」と同じくらい「平等主義」を教え込まれた。その代表が男女平等。戦前は中世以来の男尊女卑の思想が根強く支配しており、故市川房枝さんらの婦人参政権運動にもかかわらず、女性には選挙権がなかった。
だが実は、戦前の制度では女性に参政権は与えられていないものの、これと引き換えに徴兵対象ではなかった。古代ギリシャ以来、参政権と徴兵制とは表裏一体のものと考えられており、単純に女性蔑視と言うわけではなく、男女の役割を分けていた側面もある。
女性への参政権の付与は戦前の封建制打破の象徴とされた。マッカーサーの占領政策の柱の一つが、女性に参政権を与えて、日本女性を解放するというものであったことがこの事をよく表している。このようにして「平等」と言う言葉は戦前の封建的な社会からの脱却、差別撤廃の標語としてあらゆる分野で多用された。
平等主義の結果、日本人は幸せになっただろうか。確かに、女性の政治への参加や義務教育の普及など、多くの日本国民を幸せに導いた部分は大きい。しかし、行き過ぎた平等主義がかえって不公平と言う不幸せを生んでいる側面もあるように思える。

「平等」と「公平」はどう違うのだろう。「平等」は同義の言葉を二つ並べた熟語で「同じである」と言う意味。これに対して「公平」とは「おおやけ」と言う意味の漢字に「同じ」と言う意味の「平」がつけられている。したがってその意味は「おおやけに同じ扱いをする」と言う意味になる。
また、「公」は「公正」の公でもあるので、「正義に反しない」と言う意味も含んでいるように思う。だから、「公平な審判」とは言うが「平等な審判」と言う使い方はしない。
「平等」と「公平」との違いを具体的に理解するための好例を見つけた。
4名で手分け一つの仕事をしたとする。報酬は全部で10000円。Aは4時間、Bは3時間、Cは2時間、Dは1時間作業をした。10000円の報酬を「平等」に分けるとすれば全員が2500円を受け取ることになる。しかし、労働時間に対して「公平」に分配するとすればAに4000円、Bに3000円、Cに2000円、Dに1000円渡すことになる。

私が昔務めていたA病院のスタッフ夫妻は男女平等と言うことで、生まれたばかりの赤ちゃんの哺乳まで交代で行っていた。つまり、夜中3時間ごとに交代で起きて、授乳するというもの。しかし、乳児にとってみればいくら頑張ったって父親から与えられる粉ミルクよりは母親の暖かい乳房から母乳を飲ませてもらう方がよいに決まっている。
男と女はあらゆる点で生物学的に異なった生き物である。男はどう頑張ったって子供を産むことはできない。一方、筋力で女は男にかなわない。もともと男女は平等に作られてはいないのだ。それぞれの特徴を生かして役割分担するように作られているのだ。その性質の違いを無視して同じ仕事をすることが果たして公平と言えるだろうか。言えるはずがない。
男女間の本当の意味の差別の解消のためには、男女平等という言葉よりは男女同格と言った方が適切だったと考える。
共産主義国家が崩壊した大きな原因も行き過ぎた平等主義にある。働く者も働かない者も平等であるならば、努力するものが減り、国力が衰退するのは自明の理であった。

目指すべきは、性質や状態にかかわりなく同じように扱う「平等」ではなく、性質や状態の違いに配慮して結果が同等になるように扱う「公平」なのではないだろうか。
しかし、一言に「公平」の実現と言っても、実際にはなかなか困難である。先ほどの4名による分担作業の話にしても、賃金の4:3:2:1の分配が公平と言えるのは、4人の作業能率が等しいと仮定した場合に言えることなのだ。もし4人の能力に差があるとすれば、この分配方法も公平とは言えない。作業時間が長かったAの作業能率が低くて、Dはとても能力が高い結果、Aが4時かかる仕事をDが1時間で済ませてしまったとしたら。4:3:2:1の分配は極めて不公平と言える。
さらに、努力した分だけ報われる公平さを求めた資本主義経済が看過することができないほどの格差社会を生んだ事実を見れば、この公平基準もまた不完全なものと思われる。
つまり、あらゆる意味で厳密な公平を実現することは非常に難しく、神に委ねるしかないのかもしれない。

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