投稿日:2013年8月18日|カテゴリ:コラム

天動説とは「地球を中心に宇宙が回っている」と考える宇宙観のこと。16世紀半ばにニコラウス・コペルニクスが刊行した「天体の回転」において、地球を含むすべての惑星は太陽を中心として回転しているという考えを発表するまで、古代ギリシア時代から長らく信じられていた。
現在ではハッブル望遠鏡などの近代的観測技術の登場によって、宇宙には特定の中心はなく、あらゆる方向に加速度的膨張をしていることが確かめられている。つまり、コペルニクスの太陽中心説もまた真実ではないのだが、少なくとも地球が宇宙の中心でないことだけは確かだ。
地球は、自身が所属する銀河集団の中でもかなり辺境に位置し、多くのエネルギーを依存している太陽も恒星としては小型の部類である。つまり、地球は宇宙全体からみると、本当にとるに足らない存在でしかない。その地球にへばりついて、ほんのつかの間生存を許されているのが我々人類なのだ。

先日、宝塚市で固定資産税を滞納しマンションを差し押さえられたことを逆恨みした男が、ガソリンをぶちまけたうえ火炎瓶を投げ込んだ。市職員のほかたまたま現場に居合わせた住民にも怪我を負わせた。
自分が税を滞納しておいて、再三の督促に応じず、差し押さえられたら、「お前らのせいで俺の生活はめちゃくちゃや!」という言い分はあまりにも自己中心的でほとんど理解しがたい。
このところ、巷で頻繁におきるストーカー事件の犯人の「俺がこんなに想っているのに、それに応えないお前が悪い」という主張も、ガソリンぶちまけ男と同様に身勝手の極みだ。自分が、この女をものにしたいという主観的願望と、相手から嫌われているという客観的事実との折り合いをつけられない。自分の欲望が果たせないのは現実が間違っているからだ、としか考えられないのだ。欲しいおもちゃを買ってもらえない子供が「お母さんのバカ!」と泣き叫んでいるのと同じ心理。身体は成長して色気づいているのに心がガキのままで全く成長していない。
ところが、こういう心の未熟児は、特殊な犯罪者だけに見られるわけではない。私のクリニックでもそういう人をしばしば見かける。
「友達に薬をあげてしまったので、もう一回同じ薬をください。」
「1ヶ月の間に処方できる薬の量は決まっています。また、保険診療では他人に薬を譲渡してはいけません。ですから薬を渡すことはできません。」
「それじゃ眠れないじゃないですか。」
「友人から薬を返してもらうしかないでしょう。」
「もうあげちゃったんだからそんなことできません。」
「それでは来月まで我慢するしかないですね。」
「それじゃ困るんですよ!!精神科医のくせに困っている患者を見捨てるんですか!」とくる。原因はどうであれ、困っていれば助けられて当然と考えているようだ。
特定の人だけではない。世の中全体に「自分にとって不都合はあってはならないこと」と言う錯覚が蔓延しているようだ。
先日観た災害報道。これまで体験したことがないような集中豪雨で起きた土砂災害に対して、自治体の警報が遅かったと批判的にコメントしていた。
土砂崩れで命を落とした方や家を流された方は大変気の毒だ。だがしかし、これまでに体験したことのない自然現象に対して適切な予防措置がとれる方が不思議だ。東日本大震災でも分かるように、元来、自然は理不尽であり、人間の都合で動いてはくれないものなのだ。そういう自明のことを忘れて、自然とは自分たちの意のままに操れると信じている。そしてその幻想が裏切られると、それを不運として受け止めることができない。誰かのせいにして怒りをぶつけなければ済まない。
本来はすべて自分に都合よくできているはずだ。それなのに、不都合な事態になるのは何らかの悪意による妨害か、過失があったからに違いない。多くの人がストーカーと変わりない論理で行動しているとしか思えない。
人間は、科学の発達によって、地球、そしてその地球上の表面にへばりついている自分の客観的立ち位置を知った。となれば本来、現実に対してより謙虚な姿勢を持つはずである。ところが実際には、反対に、主観的自我ばかりが肥大してしまった。その結果、すべては自分を中心に動いているという、中世よりもさらに先鋭化された天動説に逆戻りしてしまったかのようである。

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