投稿日:2013年7月22日|カテゴリ:コラム

「○○駅で発生した人身事故の影響で△△線は●●駅と◇◇駅の間で運転を見合わせております」。 昨今、こんなアナウンスを日常茶飯に耳にする。
鉄道人身事故とは列車または鉄道車両によって人の死傷を生じた事故をいう。
発生原因としては、ホームからの転落、ホーム上での列車との接触、線路内への立ち入り、発車間際の駆け込み乗車、踏切での無理な横断、列車からの転落、自殺を目的とした飛び込みなどが考えられる。しかし、殆どの路線が高架化され、ホームドアまで設置されている都心部での鉄道人身事故はほぼ自殺と考えてよいだろう。
最近のデータは入手できなかったが、2008年度の鉄道自殺件数は647件となっている。そして一件の人身事故が起こると、後始末に時間がかかるために数百本のダイヤに乱れが生じる。2008年では3万5300のダイヤが30分以上の遅延あるいは運休を余儀なくされた。このうちの6割(338件)が首都圏の鉄道で起きている。つまり、首都圏では毎日1件以上、鉄道自殺騒ぎが起こっていることになる。しかも、実感として現在の状況は2008年に比べてより一層悪化しているように思う。まさに日常茶飯事だ。
警察庁は昨年の自殺者が15年ぶりに3万人を下回ったとしている。しかし、本当にそうだろうか。毎日駅構内で「人身事故」のアナウンスを聞いていると、警察庁の発表は俄かには信じられない。自殺者の総数が減少しているのに鉄道人身事故が増加しているということは、自殺の方法として電車への飛び込みを選択する者が増えているということになる。
1人が電車に飛び込むことによって、後始末する鉄道職員以外にも何万人の鉄道利用者が迷惑をこうむる。親の死に目に会えない人、大事な商談を失う人などなど。最近の自殺は一人静かに死んでいくのではなく、大勢の人を巻き込んで自殺する傾向にあるようだ、
これだけの迷惑をかけてタダで済むはずがない。ストップさせた路線の乗降客数にもよるが、自殺者に対して数百万円から数千万円の賠償金請求をされる。当然ながら被請求者は死亡しているわけだから、遺族が返済義務者となる。遺族は精神的な苦痛に加えて経済的な損害も被ることになる。
自殺をほのめかす人の言に「自分の命なんだからどうしようと勝手だろう」という言葉がある。しかし、そうはいかないのである。自殺という行為は決して自己完結の方法ではない。周囲に対する深刻な迷惑行為なのだ。自分の命は自分だけのものではなく、多くの人との深いかかわりの中に存在するのだ。

私が精神科医になりたての頃にS先輩の陪診に着いた時のこと。「死んでやる」、「もう死ぬしかない」と繰り返す患者さんに、S先生が淡々とこう言った。「もし、どうしても自殺するなら首吊りにしなさい。ガス自殺だと、後でガス会社から途方もなく高いガス料金が請求されます。電車への飛び込みも莫大な賠償金を請求されます。飛び降り自殺は下の人を巻き込んだら殺人になります。雪山で凍死なんてのも春になって遺体を降ろすのに大変な費用がかかります。薬をたくさん飲んでもまず死ねないで、胃に管を入れられて強制的に吐かせられてとっても苦しい目にあいます。」、「一番確実で安上がりで人に迷惑をかけない、しかも死体の後片付けが簡単な死に方は首吊りです。」、「だから、どうしても自殺するならば、首吊りにしなさい。」
私は、まるで自殺指南のようなS先生の言葉に内心ハラハラしていたが、案に相違して患者さんの顔から苦悶感が消えてきた。そして、「もう少しやってみるしかないですね」と言って力強い足取りで診察室を出て行った。その背中にS先生が「また、困ったらいつでもいらっしゃい」と声をかけた。
自分がどれほど苦しんでいるかもっともっと認めてもらいたいという気持ちから「死んで楽になる」という感覚的なイメージの世界に入り込んでいた患者さんが、S先生の言葉によって現実的の世界に引き戻されたのだろう。

最近おこった中学生の自殺を巡って、担任教師の発言が問題になっている。自殺直前のクラス会で「やれるもんならやってみろ」と言ったとか言わないとか。近頃は一つの言葉だけを切り取ってバッシングする傾向にあるが、実に的外れとしか言いようがない。
人と人とのコミュニケーションはたった一言の辞書的な意味だけにあるのではない。どういう流れの中でどのようなニュアンスで発言されたのかが重要なのである。それ以上に、常日頃、その人たちの間にどのような関係が構築されていたのかこそが大切なのである。
S先生の例は、患者さんとの信頼関係が深く築かれているうえに、どのタイミングで言えば相手に自分の真意が伝わるかということを察知できる、習熟した精神科医によってはじめてできる芸当だ。チェックリストで診断し、ガイドラインに沿ってSSRIを頻用し、お念仏のように「うつの人を励ましてはいけない」と唱えるマニュアル精神科医は決して真似をしない方がよい。

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