投稿日:2013年6月17日|カテゴリ:コラム

我が国に500万人近くいるとされているアルコール依存症。このアルコール依存症の治療は極めて困難だ。
酒で大失敗をして、会社からイエローカードを突き付けられた崖っぷちの状態。今度酒で失敗すれば自分だけでなく家族全員を路頭に迷わす。だが、この危機を乗り越える方法は極めて単純だ。お酒を飲みさえしなければそれでよい。だが、この単純明快な解答に応えられないのがアルコール依存者なのだ。治療を受けても完全にアルコールの依存から離脱できるのは30%に満たないとされている。
以前は、アルコールへの依存は意志薄弱が本質的な病理と考えられていた。確かに「分かっちゃいるけど止められない」は行動制御能力、すなわち意志の薄弱であることは間違いない。したがって、これまでの治療は自助グループによる集団精神療法が主体で、補助的に薬物療法がおこなわれてきた。
しかし、近年の研究によって、アルコールを長期に摂取することによっておこる脳内の変化が飲酒欲求をますます強くしていることが分かった。実際に、アルコール依存者の飲酒欲求はすさまじい。入院患者がアルコールを含んだ整髪料を飲んでしまう事故は決して珍しくない。だから依存症患者に対する意志強化のための精神療法に限界があるのはやむを得ないのだろう。

体内に摂取されたアルコールは肝臓でアルコール脱水素酵素などで酸化されてアセトアルデヒドになる。次いでアセトアルデヒド脱水素酵素によって酸化されて酢酸に変化する。酢酸は肝臓から各組織に運ばれて、最終的に炭酸ガスと水に分解される。
アセトアルデヒドは人にとって極めて毒性の強い物質で、顔面紅潮、血圧低下、心悸亢進、頭痛、悪心、嘔吐、めまいなどを引き起こす。つまり、お酒を飲んだ時のつらい症状はアルコールそのもの作用ではなく、一次代謝産物であるアセトアルデヒドによるのである。
補助薬物療法として用いられてきた抗酒剤あるいは嫌酒剤と呼ばれる薬剤はアセトアルデヒド脱水素酵素を阻害する薬物だ。アセトアルデヒドを酢酸に代えるところをブロックするので、体内にアセトアルデヒドが溜まってしまう。その結果、少量のアルコールでも、頭痛や吐き気に苦しめられる。つまり、あっという間にひどい二日酔いの状態にさせてしまうのだ。
この薬はしばしば「お酒を飲みたくなくなる薬」と誤解されてきたが、実はそうではないのだ。お酒は飲みたいが、この薬を服用した状態で飲酒すると、体内の高濃度アセトアルデヒドによって苦しい目に合う。だから、飲みたいけれど我慢せざるを得なくさせるのだ。餌の前の床に電流を流しておいて動物の捕食行動を制御する動物実験と同じ仕組みだ。
薬理作用によってお酒を飲みたくなくなるのではなく、朝、抗酒剤を飲んだのだから、今日も一日お酒を飲んではいけないと自戒させる、心理的な作用の方に治療的価値がある。
だが、アルコール依存者はそれでも「分かっちゃいるけど止められない」。抗酒剤を服用下での飲酒は珍しくない。抗酒剤を服用したにもかかわらず飲酒すると大量の急性アルコール中毒状態になるからとても危険。私は、外泊許可を得て病院の玄関を出てすぐに自動販売機で缶ビールを買って飲んだ患者が、その場で急性中毒状態となって死んだ例を知っている。本人の断酒に対する強い意志を前提に初めて使用できる危険な薬なのだ。
ところが、最近本当の意味で「お酒を飲みたくなくなる薬」が登場した。アルコール依存状態では脳のグルタミン酸作動性神経系が機能亢進している。この神経系は興奮系の回路であり、この更新状態が強い飲酒欲求の発生に大きく関与することが分かっている。この薬は過剰に更新したグルタミン酸作動性神経回路を抑制することによって飲酒欲求そのものを減弱する。
残念ながら、臨床治験の結果ではアルコール依存者の飲酒欲求を完全に抑えるわけではない。依存者の治療の基盤が精神療法や自助グループ活動による意志強化であることに変わりはない。依然として自らアルコールを絶とうと決意なければ治療が開始しない。しかしながら、少しでも飲酒欲求が低下するのならば、この薬の登場はアルコール依存者と家族、そしてその治療にあたっている人々にとっては明るいニュースと言えよう。

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