投稿日:2013年1月7日|カテゴリ:コラム

「3日くらいでよくなるでしょう」
「それじゃ困るんです」
これは診察室で時々交わされる会話である。翌日、大事な仕事が入っているので、この症状が今日中に治らないと困るということだ。下痢が続いていては出社さえおぼつかない。明日大事なプレゼンを控えている人にとっては、確かにとても困ったことだろう。しかし、適切な治療したとしても、病気は治癒までにはある一定の時間を必要とする。たとえばノロウィルスに罹患したとすれば最低でも2日くらいは動きがとれない。「それじゃ困るんです」と言われても「困る」のである。
そもそも、どんな病気であれ困らない(都合のよい)病気はない。もっとも困るのは病気の行きつく先、「死」であろう。だから人間は「死」を免れようと思いつく限りの策を弄する。しかし、どんなに努力しても死からは免れない。「生老病死」は生きとし生けるもの摂理だからだ。生物だけではない。最近の研究によれば、宇宙そのものも生老病死から免れそうもないことが分かってきた。諸行無常は宇宙全体の摂理なのだ。
昔、人々はこの節理をよく理解していた。自分たちが大自然のごく一部であり、他の自然と同じように自分自身も無常であると。ところが、文明と称するものが発達して、身の回りの生活が便利になると、大いなる錯覚を抱くようになる。その錯覚とは、自分を取り巻く自然は自分に好都合にできていて、不都合なことがあるのは工夫不足なのだと。こうして、大事なプレゼンの日までに下痢が治らないことに対して、嘆くのではなく、抗議することになる。
以前、あるタレントが肺癌で死んだ際に寄せられたコメントに、「あの人は煙草も吸わなかったし、いつも健康に気を付けていたのに、肺癌になるなんておかしい」と言うものが数多くあった。勘違いも甚だしい。癌は病気と言う自然現象である。煙草を吸おうが吸うまいが、健康食品を摂ろうが摂るまいが、起こるときには起こるのである。「あんなに良い人がこんなに早く逝くなんて」と言う言葉もよく耳にするが、善い人が長生きし、悪い人は早死にするなんて法はない。
90歳近い老人が癌の治療のために使用した薬による副作用で死んだことに対して起こされた訴訟があった。本来助かる方が珍しい異常妊娠の不幸な結果に対して産科医が逮捕されたこともあった。確かに我々医師は間違いを犯すし、全員を助けられることはできない。薬には重大な副作用がある。もしその薬を使用していなければもっと長生きしていたかもしれない。
巨大津波に対す避難誘導が不適切なために家族が死んだといって訴える。しかし、それまで経験をしたことのない災害に対して、適切な対処をできた人の方が少なかったのではないだろうか。何らかの瑕疵を責められたならば、罪を免れる人は少ないのではないだろうか。
私は、こういう訴訟を耳にすると実に嫌な気分になる。自分にとって不都合な現象に出会った時に、己の不運を嘆くのではなく、誰かを責めることで自分を納得させようとするからだ。しかも、この傾向が日増しに加速している。私はこういった主張がまかり通る背景には先ほど述べた、自然と自分との関係に対する大いなる勘違いがあると思う。その結果、自然に対する感謝や畏敬の念が失われてしまったのではないだろうか。
健康診断の際、睡眠相があまりに遅いほうにずれている若者に「君は夜、目が見えますか?」と尋ねると、自信たっぷりに「もちろん見えます」と答えることが少なくない。
昼行性動物の人は本来の夜の闇の中で物を見ることができるはずがない。しかし、現代の都市は莫大な化石燃料や悪魔の原子核分裂反応などを使って不夜城と化しているため、生まれた時から、そういう環境で育った者は、夜が本来暗いということさえ理解できない。
さらに、エネルギーの消費は我々の生活を際限なく加速し、追い立てる。今や、沖縄と北海道との間でさえ日帰りできる。インターネットを通じて瞬時に世界中の人と情報交換できる。あたかも自分の存在が地球サイズであるかのように錯覚してしまう。
しかし、生物としての己が生きる空間は昔も今も「起きて半畳、寝て一畳」でしかない。自然が少しでもくしゃみをすれば、なす術もなく消滅してしまうはかない存在であることに変わりはない。
地球や宇宙の歴史を知ると、我々が存在する現在の地球は生命体にとって極めて稀有な好環境だということが分かる。そしてこの環境は非常に危ういバランスの上に成り立っており、未来永劫この状態が続くことはない。
つまり私たちは、時間的にも空間的にも奇跡的な好環境に恵まれた結果、生きていることができているのだ。生きていることは決して当たり前ではないし、自分の都合に合わせた設計図に基づいているのではない。このことをよくよく理解してほしい。この現実を素直に認めるならば、あらゆる自然現象に対して感謝と畏敬の念を抱かないはずがない。そうすれば、やたらと他人を恨んで訴えることもなくなるのではないだろうか。

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