投稿日:2012年11月26日|カテゴリ:コラム

「101回目のプロポーズ」を覚えておられるだろうか。武田鉄矢と浅野温子が主演の1991年の大ヒットドラマだ。
ダンプカーの前に飛び出した武田が間一髪で助かった直後、「僕は死にません。僕は死にません。あなたが好きだから、僕は死にません。僕が、幸せにしますからぁ!」と叫ぶシーンは名場面として繰り返し放映され、その年の流行語にもなった。また、主題歌、CHAGE&ASKAの「SAY YES」も大ヒット。オリコンシングルチャートで13週連続1位となった。
このドラマは武田鉄矢演じる星野達郎の薫(浅野温子)に対する粘り強い猛烈なアタックがストーリーの骨子となっている。何度振られても諦めずに求愛していると、初めは冴えない中年からのプロポーズに戸惑っていた薫が達郎の純粋な心に触れて次第に心を開いていく。純愛ドラマの代表と評価されているが、見方を変えれば、相当悪質なストーカードラマだ。

最近、ストーカー殺人事件が相次いでいる。1999年桶川ストーカー殺人事件、2011年長崎ストーカー殺人事件、ごく最近では、逗子で起きた元高校教師が以前交際していた既婚女性を殺害後自殺した事件が記憶に新しい。
ストーカーとは特定の者に対して執拗に付き纏う行為を行う人間のことを言う。付き纏うだけで物理的な被害が発生しなければ、ストーキング行為を受けたものがどんなに精神的に疲弊しても、「お願いだから止めてください」と懇願する以外にストーキング行為を中止させる適切な手立てがなかった。
相次ぐストーカー被害と、桶川ストーカー殺人という深刻な事件が起きたために、平成12年に「ストーカー行為等の規制等に関する法律」を立法した。いわゆる「ストーカー規制法」が作られた。深刻な被害が起こる前に警察が関与できるようになった。ところが、まず何を持ってストーカーとするかが問題となる。良いそぶりを示さない相手に対して、再度食事に誘っただけでストーカーとされたのではたまったものではない。
ストーカー規制法によると、ストーカー行為とは同一の者に対して「つきまとい等」を繰り返して行うことを「ストーカー行為」と規定して、罰則を設けている。それではストーカー行為と認定するための大元、「つきまとい行為」とは何か。規定では付き纏い、待ち伏せ、押しかけ、監視していると告げる行為、
面会・公債の要求、乱暴な言動、無言電話、連続した電話、ファクシミリ、汚物などの送付、名誉を傷つける行為、性的羞恥心の侵害などとしている。
こういった行為によって、身体の安全、住居等の平穏もしくは名誉が害され、または行動の自由が害される不安を覚えさせるような方法により行われた場合に、初めて警察署長からの禁止命令さらに公安委員会からの禁止命令を出すことができる。さらに、これに違反すると1年以下の懲役または100万円以下の罰金。また、告訴すると処罰できる。この場合には6ヶ月以下の懲役または50万円以下の罰金となっている。この他、警察は重大な犯罪に発展するのを予防するために、防犯ブザーなどの貸し出しも行っている。
法律の整備が悪質なストーカー行為の抑止力になったことは確かだ。しかし、根絶できるかと言えばそう簡単ではない。いくら条文で禁止行為を規定しても、個々の行為について、つきまとい等か否かを判断することが簡単ではないからだ。
ストーカーに限らず、他の行為においても、その故意性、謀略性を判断することは困難な場合が少なくないのでないだろうか。なぜならば、真相は心のうちにしかないからだ。詳細な殺人計画書でもあれば別だが、殺意の有無の判定だって相当やっかいだろう。
まして、恋愛の延長上にあるストーキングに至っては、「嫌も嫌よも好きのうち」、「押しの一手」など、求愛を受け入れられない際に、諦めず、粘り強く求愛を続けるように説く教えがあるくらいだ。さらには同じ人に同じことをされたとしても受け取る相手の感情が変化すれば、嬉しい求愛行動から一転してストーカー行為の評価に代わってしまうことも珍しくない。つまり、本当に嫌がっているかどうかが一番大事な基準であるところが問題を難しくしている。
世の中には、「お前のためだから」といって相手の嫌がる言動をする人間がいる。その人は本当はよい人なのだろうか。いいえ、そうではない。相手が少しでもその行為に正の評価を下せば、それは良い苦言となるが、本当に苦痛しか感じなければ、単に悪意の行為である。
つまり人との付き合いにおいて大事なのは、自分中心ではなく、相手中心に考えることだ。つまり、自分がこうしたい、こうされたいではなく、どうしたら相手が嫌がらないか、どうしたら相手が喜ぶかを基準に行動するよう努力しなければいけない。
そのためにはまず、相手の気持ち(感情や意欲)を推し量る能力を養う必要がある。ところが、現代人はこの能力が著しく低下しているように思える。核家族化が進み、ガキ大将を中心とした、年齢をまたいだ集団の子供遊びがなくなった。その結果、大人になるまでに接する人の数が激減した。当然ながら人と接することによって伸びる能力は成長しない。自己中心的な人が増えたと言うが、実は他者の心が読めない人が増えたのではないだろうか。

家内の私に対する初印象は好ましいものではなかったそうだ。そこをなんとか押して、初めて食事に誘った先が、新宿の場末の焼き鳥屋。後で知ったことだが、焼き鳥は当時の彼女が嫌いな食べ物の一つだった。
この時の彼女の私に対する評価が「なんてしょぼくれてセンスのない人」程度で、しかもストーカー規制法がなかった時代だからよかった。もし、ストーカー規制法が施行されていて、彼女が焼き鳥屋デートを「悪質な強要あるいは嫌がらせ行為」と認定していたならば、その後私には早晩、警察署からの接近禁止命令が出されていただろう。そうであったならば、息子も娘も存在しない。
私や「101回・・・」の星野達郎を含めて、動物の雄は命がけで交配相手を求める。これは本能であり、究極の存在理由だから致し方ない。だが、この求愛行動は猪突猛進だけでは決して成功しない。己の全能力を使ってなされなければならない。その際に必要な能力とは、相手の気持ちを察知する能力と状況判断能力ではないだろうか。ストーカーと化す人間は共通してこの二つの能力が低いのだと思う。

少年よ、ゲームをする時間があったら、もっと多くの人と接して、相手の気持ちを察する訓練に励みたまえ!

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