先日、高倉健のドキュメンタリー番組があった。久しぶりに見る健さんはさすがに齢を重ねたなと感じたが、81歳という年齢を聞いてびっくりした。立ち居振る舞い、話しっぷり、どこをとってもとても80を超えた老人には見えない。幾つになっても、寡黙でシャイな、武士の心を残した、古き良き日本人の香りを漂わせた健さんなのだ。
健さんのインタビューへの応答の中でとても印象に残った言葉があった。それは「俳優は私生活を見せてはいけない」というものだ。実際、健さんの私生活は、江利チエミと結婚し、12年後に離婚したという以外、殆ど知られていない。芸能関係者からときどき漏れ伝わってくるのは、高倉健のスターとしてのイメージをより強固にする伝説的な逸話ばかり。当然のことながら、共演者や飲み屋のねえちゃんなどとの醜聞は一切聞いたことがない。
振り返ってみると、昔の映画俳優は私生活が秘密のベールに包まれていた。女優で言えば、有馬稲子、高峰秀子、高峰三枝子、松原智恵子、大原麗子、芦川いづみ、吉永小百合など雲の上の存在で、炊事、洗濯、掃除などをする姿は想像できなかった。ましてや放屁などする私たちと同じ生き物とは考えられなかった。彼らとの接触は映画やテレビで観るほかは映画雑誌やブロマイドという写真を購入する以外、ご尊顔を拝することさえできなかった。こうして、彼らはスターとして神格化されていた。
ところが、最近のアイドルと言われる人たちはどうだろう。今人気絶頂のAKBの面々を見ると、外見も、絶世の美女とはかけ離れている。街を歩いていればそこら中で見かけるちょっと可愛いだけの若い女性だ。好みはあるものの、中には私の目からはとても可愛いとさえ言えない女性もいる。しかも芸があるわけではない。小学校の学芸会のような振りを付けて少々音程が外れた歌をみんなで斉唱しているだけ。
なぜ彼女たちがあれほどの人気を得ているのだろう。いろいろな理由があるだろうが、大きな理由の一つはスター性がないことなのだ。どこにでもいる当たり前の女の子だからこそ人気を獲得しているようだ。私生活を積極的に露出し、握手して回る。いつでも触れられて、ひょっとすると明日から個人的に付き合えるかもしれないと錯覚させることが人気の秘訣になっているようだ。
ということは、彼女たちを昔のスターと比較して考えること自体間違っているのかもしれない。私たちの世代はガールフレンドがいたとしても、さらに手の届かぬ存在としてのスターを求めていた。ところが、現実に生身の女性と付き合う勇気や術を持っていない男性が少なくない現在では、まったく手の届かぬ存在のスターよりも、仮想ガールフレンドの方がまず切実に求められるのだろう。
こういった需要をいち早く察知した秋元康という男、なかなかの腕前の猿回し、あるいは名うての女衒(ぜげん)と言える。この男の企みによって、勉強嫌いで目立ちがり屋のねえちゃんばかりが増え、「高値の花」という言葉が死語になってしまった。
私は、再度「美しい国日本」を目指す安倍晋三さんには是非とも、「スター」を絶滅危惧種に指定し、国を挙げての保護体制を整えることを政策として掲げていただきたい。
投稿日:2012年10月1日|カテゴリ:コラム
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