投稿日:2012年9月17日|カテゴリ:コラム

我が国の刑事法体系における極刑は死刑である。死刑とは国家権力によって一人の命を奪うことであり、憲法に保証されている生存権の例外適用と言える。したがって、以前からこの死刑を廃止せよとの意見は後を絶たない。
死刑の存廃に関する議論は容易に結論が出るとは思えない。世界的な流れとしては死刑廃止の方向にあり、欧米諸国から死刑廃止の方向の圧力が増している。
死刑廃止論の理由は幾つもあろうが、国家権力が個人の生命を奪うということをよしとしない点と、冤罪救済の目的とが重要な根拠となっているように思う。近年、DNA鑑定の精度が飛躍的に向上し、再審による逆転無罪判決が出てきている。また、痴漢事件などにおいての冤罪の多さを考えると、確かに私も冤罪による死刑に対する危惧は大いに感じる。死んでしまってからでは再審請求もできない。何十年牢獄に繋がれていようと、生きてさえいれば再審請求の可能性が残されているからだ。
しかし私は、死刑廃止のもう一つの論拠、なんぴとも他人の命を奪うことは許されないという考えには与しない。彼らが罪人を庇う際に口にする言葉に「一人の命は地球より重い。」がある。この言葉は明治時代の小説の中に出てくるのだそうだが、これを一躍有名にしたのは福田赳夫元首相だ。
1977年日本赤軍がダッカでの日航機ハイジャック事件で、犯行グループが高額の身代金と服役中の過激派受刑者を開放するように要求した。時の総理大臣、福田赳夫は身代金600万ドルと服役および拘留中の過激派犯6名を超法規的措置として釈放し、特別機でダッカまで空輸して、人質と交換した。福田がこの際に述べた言葉が、この「一人の命は地球より重い」であった。以降、いろいろな場面で使われるようになった。
福田は、乗員、乗客146人の命と法による正義の実現とを天秤にかけた苦渋の決断を強いられた。この時福田の口から発せられたこの言葉は、福田の心中を推し量り、よく理解できる。しかし今、人権派と呼ばれる人たちの口から発せられる「一人の命・・・・」は偽善の極みにしか聴こえない。彼らに問いたい。自分の家族を惨殺した犯人を前にしても「一人の命は・・・・」と言えるのか。
そもそも、犯罪者に限らず、どんな重要人物だとしても、たった一人の命が地球より重いはずがないではないか。そんなことは小学生でもわかる。別に物理的な重さだけを言っているのではない。地球の上にはその人以外の70億を超える人の命が乗っているのだ。安易に「一人の命は・・・・」を口にする者は、場面に応じてヒトの命に軽重をつけている。極めて矛盾した主張なのだ。
さらに、地球が支えている命は人類だけではない。地球は何100万種類ものさまざまな動植物の生態系を支えている。この10万年ほど地球上に君臨しているかのように見える我々ヒトは、46億歳に達する地球規模で考えたらごく最近降って湧いたごみみたいな存在でしかない。
それなのに、今の人間は人間中心の宇宙観で行動する。その元凶はユダヤ教、キリスト教、イスラム教が仰ぐ一神教の世界観にあるように思う。「神が自分に似た姿形のヒトを中心としたこの世を創った」などという傲岸不遜な宇宙観によって、あるがままに物事を見ることができなくなったのだ。
しかも種としてのヒトよりも、たかだか数10年の命の個の生命にとらわれ過ぎている。個々の命は種の命を継続していくための継ぎ手に過ぎない。私たちはヒトという種を継続するために極一瞬、地球の上で生かされている存在であることを忘れてはいけない。
ところが最近は、愛人との生活のために我が子を殺すような母親のニュースも珍しくなくなった。その生物としての究極の使命を忘れてしまったのだ。異常に自我が肥大した結果だと考える。
「一人の命は地球より重い」という言葉もこう言った思い上がりの延長線上にあるのではないだろうか。
私はこの肥大しすぎた自我が自分たち人類を自滅へと追いやるのではないかと心配している。もう一度言う、私たちは幸運にも今現在地球の上で生きることを許されているだけなのだ。そして、その使命は種としてのヒトの命をつないでいくことでしかない。

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