前回のコラムでジャズのことを書いたが、私はジャズに限らずあらゆるジャンルの音楽が大好きだ。そして聴くだけでなく自分で歌う。さすがに民謡は小さい頃から縁遠かったので歌わないが、演歌、ポップス、スタンダードジャズ、なんでも歌う。歌好きが高じて我が家にからカラオケルームを作ってしまい、家内の不興を買っている。
そんな私が最初に覚えて人前で歌った曲は三橋美智也の「哀愁列車」だった。父が買ってきたドーナツ盤を何度も聴いて三番まで完璧に覚えたが、歌詞の意味は殆んど理解していなかった。小学生になるとビング・クロスビー、ペリー・コモ、アンディー・ウィリアムズ、フランク・シナトラをよく聴いたが、自分で歌うほうの十八番は橋幸夫。これはもう新曲が出ると必死になって覚えたものだ。
小学校の高学年で出会ったエルビス・プレスリーは中学時代のおけるビートルズとの出会いと同じくらい衝撃的だった。高校になるとギターを買ってもらってフォークソングを覚えた。勉強そっちのけでギターの練習をした。なぜならば、カラオケのない時代、いくら歌を覚えても誰かに伴奏してもらうか、レコードの歌にかぶせて歌わない限り、アカペラするしかなかった。ところがギターさえ少々弾ければ、好きな女の子の前で自己アピールできる。
男子校だった私にとって、成績がよくなったり、柔道が強くなって、野郎たちの間で少々目立つよりも、ギターを弾けるようになることの方が大切だったのは言うまでもない。
このように不純な動機で音楽に接し始めたわけだが、今は純粋に音楽が好きだ。しかし、最近のJ-POPは、桑田佳祐のような例外を除いて、あまり好きになれない。
好きになれない第一の理由は曲がメロディアスでないことである。
音楽はメロディー、リズム、ハーモニーの要素から成り立っているのだが、最近の曲はリズム優勢でメロディーがないがしろにされている。ただシャカシャカとコンピュータが刻むアップテンポのリズムに無理やり音程を上げ下げしているだけの曲も少なくない。そのメロディーラインが奇をてらい過ぎて美しくない。そろそろ上がるだろうと思う場所で音を下げてみたり、もういい加減に下がろうよと願っているのにさらに一段音程を上げて見せたり。サーカスのような音楽が多く、生理的に快感を催さないのだ。
人間には生理的に心地よいテンポとメロディーラインがある。ウルトラDの技よりもそういう心地よい音の方が心に浸み、歌も覚えやすい。身体固有周波数に合っているからだろう。
第2の理由は歌詞を無理やり押し込めてあるために、日本語として聴きとれないこと。
字余り歌詞の元祖は今は亡き尾崎豊だろう。自分の伝えたいことを強引に曲に当てはめた。それまでの曲は曲にうまく乗るように歌詞を考えたものだが、尾崎はそういうことはお構いなしに大量のメッセージを楽譜に振り分ける方法をとった。それはそれで結構なインパクトであったが、最近はこれがさらに行き過ぎて日本語の文節やイント―ネーションをまったく無視。言葉はメッセージではなく単なる音源の一部としか考えていないようだ。画面下のテロップを読んで始めて、「ああこう言っているのか」と分かる。曲だけ聴いていると何を言っているのか皆目見当がつかない曲もある。
第3の理由は曲が長すぎること。
昔の曲に比べてもっとも変わった点は、曲の長さではないだろうか。最近の曲はみな異様に長いのだ。昔の歌謡曲は殆ど2~3分に納まった。ニューミュージックと呼ばれる時代になって少しずつ延び始め、松山千春の「長い夜」は文字通り長い歌に感じた。極めつけは松任谷由実の「真夏の夜の夢」。なんと14分を超える大作となった。さすがに最近でもこの作品を超える長さの曲はめったにお目にかからないが、それでも4分、5分が当たり前となってしまった。
よほどの名作であれば別だが、ただただ長い曲ははっきり言って聴いている最中から飽きてくる。プロの歌手が歌っても飽きるのだから、それを下手くそな素人にカラオケルームで延々とがなりたてられたならば、苦痛以外のなにものでもない。
カラオケで仲間から嫌われないために、私はなるべく昔の歌を歌うことにしている。