投稿日:2012年7月30日|カテゴリ:コラム

私はジャズが好きで、ときどきライブに行く。好きな煙草を片手に酒を飲みながら自由気ままに飛び交う音に浸るひとときが心地よい。そんなライブでなんとなくその場にそぐわない人をときどき見かける。しかめっ面をして演奏者をにらんでいる人。演奏はそっちのけで、連れの人に曲や演奏者の解説をしている人。ジャズを楽しみに来たのではなさそうだ。ジャズ評論家あるいは解説者を目指しているのだろう。
ジャズの誘いにのらない人の言葉にも首をかしげるものがある。「どうもジャズは分からなくて・・・」。音楽とは耳で聞いて感じるものだと思うのだが、どうやら音楽を理屈で理解するものだと思っている人がいるようだ。しかも、そういう人は思ったよりも多い。
ジャズでさえ「分かる」、「分からない」の議論をするくらいだから、クラシック音楽、オペラ、歌舞伎、能、狂言に至っては、「分からない」という理由で鑑賞しない人が多いのではないだろうか。
音楽だけではない。美術に対しても、観て感じる以前に、「分かる、分からない」、「易しい、難しい」といった議論をする人が少なくない。「ダリの絵は難しくて分からない」とか、「ピカソの絵はなにを言いたいのか分からない」といった具合にだ。
アート(芸術)に接して、作者の意図を探り当てたり、技巧を論ずるというのも、それはそれで一つの鑑賞法かもしれない。しかし、それ以前にもっとも肝心なのは感ずることなのではないだろうか。その作品が自分の心の奥底に働きかけて何らかの感情を引き起こし、感動することこそがアートの本質だと思う。
美しい音に触れて心が癒され、力強い絵画を見てエネルギーをいただければそれでよい。作者の意図とまったくかけ離れた部分に感動することがあっても不思議ではない。言い換えれば、いくら有名な作家や演奏者の作品だからといって、自分の感性に触れるものがなければ「好きでない」とはっきり言えばよい。「ダリの絵は難しい」と言う発言は、実は「ダリの絵が好きではない」といった方が正しい。
ところが、自分の感性の赴くままにアートと接して「好きだ」、「好きでない」と言っている方は存外少ない。皆が素晴らしいといっている作者、作品だから観てみよう、聴こうという態度の人が結構いる。特に日本人にはこういう方が多いように思う。ルーブル美術展やチックコリアの演奏を聴きに行く人の中には、有名だから行くという方が少なくない。
アートに対する日本人のこういう態度は若いアーティストを育てない。無名のうちは見向きもしないからだ。外国で賞をとって有名になって始めてファンができる。ヨーロッパでは無名であっても自分が好きと感じるアーティストの作品を購入する人が多い。そうやって新しい才能が開花できる。
「皆がいいというから自分もその良さ理解しなければ」という卑屈な態度を改めて、どうか自分の感性を信じて「この作品が好き」と表現してほしいものだ。

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