投稿日:2012年7月2日|カテゴリ:コラム

スポーツ選手へのインタビューを聞いていて、とても耳障りな言葉がある。なにを尋ねられても、必ず「そうですね~~」という言葉で始まる。最初は石川遼のインタビューが気になったのが始まりだ。
「6番のバンカーからのチップインは素晴らしかったですね。あれは最初から狙っていったんですか?」
「そうですね~~、距離はあったんですけど、顎から遠かったので攻めることができました。」
「18番のあわやというパットが入っていればプレイオフだったんですけれど、ショートしてしまいましたが、あれはやはり確実に2位狙いということだったんでしょうか?」
「そうですね~~、2位狙いというわけではなく、狙っていったんですけれどどこかで優勝を意識してしまったのかもしれませんね。」
質問に対して肯定的な答えの場合にも、否定的な場合にも必ず「そうですね~~」で始まる。本来ならば、肯定する時には「そうです」あるいは「そうですね」で会話を始めてよい。しかし、否定する場合には「そうではありません」または「いいえ」で始まらなければおかしい。
どちらの場合にもなんとなく通用してしまうのは「そうですね」の後に続く「~~」に秘密があるのだと思う。「~~」と伸ばすことによって「はい」とも「いいえ」ともとれるあいまいな表現になる。日本語ならではのテクニックと言える。英語だとそうはいかない。「yes」は「yes」、「no」は「no」と旗幟鮮明でなければならない。「yes~~」といくら語尾を伸ばしても「そうですね~~」にはならない。
最初は石川遼だけの話し方かと思っていたが、そうではなかった。サッカー、野球、いろいろな種目の選手のインタビューで「そうですね~~」が聞かれることに気付いたのだ。誰か共通のスピーチインストラクタでもいるのだろうか。
有名人の言動はすぐに一般の人に広がる。私のクリニックを訪れる若者からも最近、「そうですね~~」をよく聞くようになった。

「そうですね」よりももっと耳障りな会話がある。それは「○○○の中で✕✕✕になっています。」である。おそらく、「中で」は「○○○の流れの中で」という表現の「流れ」が省略されたものと考える。現在の状況を方向性を持って表す際の表現だと思う。たとえば、「地球温暖化の流れの中で、ここ数年我が国では毎夏、猛暑となっています。」といった使い方であるならば理解できる。
ところが、「中」を連発する人の使い方を見ると、確かに、物事の方向性や内側を表現する場合に使われることもあるが、方向性や内外とまったく無関係な状況で使われることが少なくない。どうやら、「だから」、「なので」、「という理由で」という意味で使っているようだ。さらに「✕✕✕となっている」という表現も、状態を表すのではなく、自分の主体的な行為を表している。つまり、本来は「○○○という理由で✕✕✕しました。」と話すべき内容を「中」で「なっている」と言うのだ。
たとえば、「夏の電力重要、事故対策の徹底という中で、このような新電気料金になっております。」これを翻訳すると、「火力発電用の燃料代確保や福島原発事故への補償など物入りだから電気料金を値上げします。」となる。はっきりそう言えばよい。奥歯に挟まった物に蛆が湧くような表現だ。
さらに最近では、もっと拡大して否定的な「だけど」、「とはいえ」と言った意味でも「中」が使われている。たとえば、「有給休暇をすでに消化してしまった中で、この2週間、欠勤という状態になっております。」これも、「もうとっくに有給休暇はないのだけれど相変わらず会社に行っていない」ということだ。
皮肉屋の私は、こういう表現を聞くとつい、「それでは○○○の外ではどうなっているの?」と聞き返してしまう。相手は何を指摘されているのか分からず茫然とする場合が多い。日頃、先輩たちがお得意様相手に連発する、「○○○の中で✕✕✕となっております」を見て学んだ彼らは、自分が正しい言葉づかいをしていると信じて疑わないからだろう。
こういった表現を聞いて私が不愉快になる理由は、主体性や根拠をできる限り曖昧にしようという意図が見えるからだ。自分がなした行為をまるで人知の及ばない自然現象のごとく表現する。責任を逃れたいとの下心が見え隠れする。
私が憤慨していると、友人から「そう言うあいまいな表現はもっといっぱいあるわよ。」「たとえば『○○○という思いもあります。』なんて言うのもそうじゃないかしら。」と言われた。確かに、この表現はまさに責任の逃れの代表格かもしれない。
こういう表現の蔓延は、多くの人が責任逃れに汲々としていることの証ではないだろうか。その延長に平然とマニフェストを破る厚顔無恥の政治家がいる。主語がはっきりとした物言いを心がけたいものだ。

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