投稿日:2012年6月11日|カテゴリ:コラム

5月22日、着工以来3年10ヶ月を経て、ようやく東京スカイツリーが開業した。高さ634m。電波塔としては世界一の高さを誇る。工事期間中に東日本大震災の震度5強の揺れにも、誰一人犠牲者を出さずに見事に完成した。
夜間は省エネルギーの要求に応えてLEDでライトアップされる。その色は江戸下町の「意気(いき)」を表現する淡いブルーと「雅(みやび)」を表す江戸紫が1日交代となっている。

ブルーの照明が象徴する「意気」は江戸時代に醸成された特有の美意識であり、外国語に正確に同じ意味の言葉は見当たらないと聞く。意気は「意気地」という道徳的な価値観に裏付けられている。すなわち、「宵越しの金は持たない」という台詞で代表される、やせ我慢と反骨精神である。
現在では「意気」はしばしば「粋」と混同されているが、実は「意気」と「粋(すい)」とは似て非なる美意識なのだ。「意気」も「粋」も、ともに身なりや振る舞いが洗練されて恰好が良いことを示すが、「粋(すい)」は上方(京都)の文化様式である。絢爛豪華な西陣織に象徴される、美しさを極限まで突き詰めてそのエッセンスを抽出することによって到達する。
一方、「意気」は物事を究極までは突き詰めず、常に僅かな貯めを残し、どこか崩したところに美意識を持つ。花に喩えた場合、上方の「粋」は牡丹や満開の桜。これに対して「意気」は白梅や散りかけた桜と言えよう。

このところ、関西のお笑い芸人、河本準一が生活保護をめぐり国会議員を巻き込んで世間を騒がせている。事の成り行きは皆さんよくご存じだと思うが、要するに1000万円以上する外車を乗り回し、4000万円もの収入がありながら、自分の母親や義理の母に十分な生活費を与えずに、生活保護を受けさせていたということだ。
暫くは「貰えるもの貰って何が悪いんだ」と居直っていたが、騒ぎが大きくなり、大手自動車会社の広告から外されるに至って謝罪会見を開いた。「考えが甘かった」と訳の分からない詫びもどきを述べたが、生活保護受給自体は地元の役所と相談の上のことで不正行為ではないとの主張に終始した。
河本の所属する吉本興業も、仲間のお笑い芸人も、一斉に河本擁護のコメントを連射して、河本を実名でツイートした代議士を非難する始末。一方、膨れ上がる生活保護費に頭を抱えていた政府は、これを好機ととらえて生活保護支給条件の厳格化を図りだした。
世をあげて、「不正だ」、「いや不正ではない」と喧喧諤諤と議論が盛り上がっている。しかし、志ん生や圓生の笑いの中で育った四代目江戸っ子の私の目から見ると、河本の行為は不正云々を問うべき問題ではないように見える。ただ「無意気」*で「みっともない」という一言に尽きる。
行為そのものもみっともないが、ばれた後で「不正ではない」とか「個人情報が・・・」なんて芸人が言ったらおしまいだ。野暮すぎる。人の目はどうあってもお天道様ちゃんと見てるよってところで生きていくのが「意気」。そして芸人はもともと卑しい存在だが、それでも人から一目置かれるのは「意気」だからではないだろうか。それほど大事な「意気」を失った野暮な芸人なんてワサビのない寿司、あんこのない鯛焼きみたいなものだ。
私は以前から関西お笑い芸人の芸に笑いを感じなかった。ただ大騒ぎして、受けなければ自分から笑って見せる。落語のように悲しいのにおかしいとか、数秒経ってじわじわと湧きあがってくる絶妙な笑いは欠片もない。ひょうきんな小学生が大きくなっただけに見える。今回の事件で彼らの話芸がなぜ面白くないのかがさらに良く分かった。「意気」でないからだ。

生活保護制度の運用の難しさは、それぞれの人の事情に応じて考えていかなければならないことにある。お馬鹿な首振り厚生労働大臣の言うように、書類だけで扶養義務強化をすれば済む問題ではない。
無意気な三流芸人のために、孤独死が急増しないことを祈るばかりである。
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*無意気:意気の反対で格好悪いこと。上方の美意識「粋」の反対は「無粋(ぶすい)」という。

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