投稿日:2012年5月28日|カテゴリ:コラム

私の精神医学における恩師といえば、先日ご逝去された新福尚武、慈恵医大元教授である。新福先生の臨床講義に魅せられたお陰で、あまり悩まずに卒業後の進路を決めることができた。自分の精神医学の基本的な考え方は今でも新福流だと自負している。
だが、私には新福先生の他にもう一人、恩師と呼べる人がいる。それは入局当時、講師でほどなく助教授になられたS先生。S先生からは精神科医療の実践、論文の書き方に止まらず、一般的なものの考え方など、さまざまなことを教わった。今現在私がいっぱしに精神科の開業医として飯を食っていけるのはS先生のおかげが大きいと思っている。そのS先生からの教えの1つにこういうものがあった。
当時から医師は患者さんの話をじっくりと聴くことが大切と考えられていた。特に精神科では他の科以上に話を聴くことが求められ、一人の患者さんにかける時間が長い医者が良い医者だという見方が一般的であった。
わが教室にはその意味でまさに精神科医の鑑と言える先生がいらっしゃった。このM先生は患者さんの話をけっして遮らない。患者さんが「もうしゃべることはない」と納得されるまで聞き役に徹する。11時受付終了の午前の診療がしばしば3時、4時にまでおよぶことがあった。このために外来担当の看護士がお昼ご飯を食べ損なうことも希でなかったが、理想の精神科医には誰一人苦情を言うことはできなかった。
ある日、2時前に午後の診療のために外来に行くと、その日もまたM先生がまだ午前の診療をしていた。私が「本当にM先生は偉いな!」と言ったところ、横にいたS先生が私に向かってこう言った 。
「西川、お前本当にあれが良い診察だと思っているのか?」
「えっ、だって、あれほど一人の患者さんに時間をかけるなんて、とても私にはできないですよ。」
「彼の診察をよく聴いてみろ。患者さんのしゃべりにあわせて、『へえ』『ほんと』『なるほど』を繰り返しているだけだ。」、「患者さんの訴えを纏めて、その中から精神症状を見つけ出し、さらには患者さんの考えを健康な方向へ向けるという精神科診療の目的が達成されていない。」、「有意義な診察のためには、患者さんの話を遮って介入しなければならないことがある。」「ただただ時間が長ければ良いというものではない。」、「それから、忘れてならないことがもう1つある。それは、目の前にいる患者さんだけがお前の患者さんではないということだ。外の待合室でじっと待っている患者さんも、君の患者さんであることを忘れないように!」

メンタルクリニックでは最近、予約制の診療を行っているところが多い。1人の患者さんの診療に十分な時間を確保しようという狙いからであろう。私のクリニックでも初診に関しては予約制にしている。初診は病状の他に既往歴、生活歴など種々の情報をお聴きしなければならないからだ。それでも、飛び込みで初診の患者さんが入ってこられても、待合室がそれほどこんでいない時には、受けるようにしている。再診は診療時間内ならいつでも可。
ところが、最近開業ラッシュのメンタルクリニックでは再診も予約制のところが多い。そういうクリニックを主治医にもつ方は、私のようなそっけない医者にかかっている患者さんと比べてさぞかし幸せだろうと思うのだが、存外よいことばかりではなさそうだ。
先日飛び込みで初診に来られた患者さん。2年以上通っている主治医がいる。ところが、「この前に処方してもらった薬を出張先に忘れてきてしまったので、同じ処方を9日分欲しい」と言う。「なぜ主治医のところへ行かないの?今日が休診日なの?」と聞くと、そうではないと言う。今日は診療日だし、主治医もいる。しかし、自分の次の予約日は9日後であり、それまでは診てもらえないというのだ。困り果てた挙句、私のところに辿り着いたらしい。状況を説明しようと、私からクリニックに電話をしても、受付嬢に「先生は診察中です。」と門前払い。仕方ないので同じ処方を9日分だけ処方した。
産業医業務の場面でもしばしば予約の壁にぶつかることがある。産業医面接の場で病状の悪化を認めたり、急ぎで主治医の意見書が必要となって、直ちに主治医を訪れるように勧めても、「再来週の木曜日でないと会えません。」と言った返事が返ってくることは珍しくない。
こういう診療は果して患者さんの利益になっているのだろうか。確かに、察室の中に入った患者さんにとっては素晴らしい治療環境を提供かもしれない。しかし、病気は予測不可能な変化をして、予約の期日に合わせてくれはしない。
診察室の外にいても、困った時にすぐ対応してくれるのが主治医というものではないのだろうか。粗末な診察しかできない私でも、いつでもいるというだけで多少は役だっているように思う。しかし、こんなことを言っているとまたS先生に叱られそうだ。「いるだけなら門番とかわりない」と。
医療はサービス業と言われるが、レストランや美容院とは違う。患者さんの状況に応じた臨機応変の対応が必要ではないだろうか。

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