投稿日:2012年5月14日|カテゴリ:コラム

我が国では平成23年3月11日を境に私たち日本人に大きな変化が起きた。原子力発電の安全神話の崩壊、電力供給体制の見直し、ひいては人生観を変えた。これまでの生き方を反省し、生き方に手直しを加えた人も少なくない。明日が不安定なことを知って、今日一日の大切さを痛感した。できる限り最愛の家族と過ごそうとする人が増えた。
当然ながら、もっとも変わったのは防災意識である。今までは遠い将来の出来事で、おそらく自分には降りかかるまいとたかをくくっていた大災害を、明日起こるかもしれないごく身近な出来事として捉えるようになった。
しかしよく考えてみれば、ユーラシア、北米、太平洋、フィリピンという4つのプレートの会合点に当たる日本列島ではいつ何時巨大地震が起きても不思議ではない。いやそもそも、この4つのプレートのせめぎ合うエネルギーによって日本列島が形成されたのだ。たかだか数百年の史書を根拠に地球的な災害の大きさを予測するとことが無意味であることは当然と言えば当然である。
ところが、毎日の生活に汲々とする我々凡人は、どうしても自分の一生の単位でしかものをみることができない。いくらインド洋で大災害が起きても、自分が体験したことのないことは、これからも起きないだろうと思ってしまうのだ。東日本大震災の衝撃も後数年もすれば、被災県民以外の人は、きっと記憶の隅に追いやられてしまうに違いない。
むろん、震災があったという事実を忘れ去るものではない。だが、それは歴史的事実としての記憶であり、切迫した危機感情を伴う生々しい記憶ではない。だが、忘れやすい自分を責める必要はない。嫌なことを意識下に埋没させる忘却という機能は、脳が自分自身を守るための重要な機能なのだから。
だが、一般人はしょうがないとしても、学者はそうであっては困る。学者は過去から多くの情報を集め、深く考察し、できる限り普遍的な規則性を見出して、その分野における確固たる指標を指し示さなければならない。
ところがどうだろう。先の震災以降一年の間に、地震や津波に関する予測が次々と変更になった。それまで、震度6止まりと考えられていた首都圏直下型地震が震度7に達することになった。東海、東南海、南海地震の際に想定される津波の高さが10数mから30m超に変更になった。新たな活断層が発見され、既知の活断層の長さも大幅に延長された。各地の地質を見直すと、これまで報告されていなかった過去の巨大地震の存在が明らかになった。
原子力発電関係の学者の発言の変遷に至っては空いた口が塞がらない。事故当初、テレビに出ずっぱりで原子炉安全神話を吹聴していた学者が、メルトダウンが明らかになった後、己の誤った見解に対して謝罪しただろうか。
私は不思議でならない。これまで何十年も見つからなかったことが、どうしてこの1年で次々と発見されるのだろう。予測値が急に倍増するのだろう。不確かなことに対してどうしてあれほど自信を持って太鼓判を押せたのだろう。
何十年も仕事ををさぼっていたわけではないだろうから、目の前の証拠を見逃していた、あるいはある一定以上の出来事は起こり得ないという先入観を持って計算していたのだろう。それ以外に考えられない。これでは素人の未来予測と変わらない。およそ普遍的な真理を追究するプロの仕事とは言えない。
学者とは、大学の専任教員、研究機関や研究所の専属研究員、博物館の専属学芸員といった職業研究者を指す。プロの研究者である。
プロフェッショナルと定義されるには幾つかの条件が満たされなければならない。一つは、自分の専門領域における見識が抜きんでていること。二つ目には己の研究成果に対して社会的責任を持つこと。三つ目にはその研究活動によって生計を立てていること。
今回の一連の騒動を通して分かったことは、現在の学者は一つ目の条件は満たしていても、二つ目のプロとしての矜持が欠落し、三つ目の研究で金を稼ぐ術に長じている者が多いということだ。学者としての品格が疑われる。
この傾向は地震学者、原子物理学者に限ったことではない。医学の領域においても学者の品格の低下を目にする。特定の製薬会社の専属となり、その会社と吊るんで全国、いや世界をまたにかけて巡業発表する学者が少なくない。
学問の世界がいつからこんな状況になってしまったのだろう。それとも、昔から学者というものはこんなものだったのだろうか。昔はどんなに政治、経済的な圧力がかかっても、己の信ずるところを譲らない品格の高い学者がいたように思う。
それでも私は、今でも品のある学者はいいると信じている。ただ、真の学者は学会で冷や飯を食い、出世できず、陽の目を見ないのだと思う。学者の品格の低下は、権力におもねり、世渡り上手の研究屋が出世し、高給を得られる、学界の構造的な問題の現れなのかもしれない。
世俗が拝金主義一色に染まっても、学問の世界だけは超然として品位を保つ最後の砦であってほしいものだ。

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