投稿日:2012年4月23日|カテゴリ:コラム

現代日本を代表する実業家と言った時、この人を抜きには語れない。パナソニック(旧、松下電器産業)創設者、松下幸之助、その人だ。
幸之助は1894年11月27日、和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木の小地主、松下政楠の三男として出生した。幸之助が5歳の時、父が米相場で失敗し破産。尋常小学校を4年で中退して9歳で丁稚奉公に出される。
自転車屋の丁稚時代、大阪で路面電車をみて電気に関わる仕事を志す。16歳で大阪電灯(現、関西電力)に入社して7年間勤務する。この大阪電灯時代簡単に電球を取り外すことができるソケットを考案して23歳で大阪電灯を退職し、大阪府東成郡の自宅で妻、むめの、その弟、井植歳男(後の三洋電気創業者)と2人の友人とでソケットやプラグの生産を始める。二股ソケットのヒットを足がかりに家内工業の町工場を世界有数の企業パナソニックに育て、経営の神様と呼ばれるまでに至った立身出世物語はあまりにも有名だ。
経営の神様と言われるが、実は幸之助は長い経営者人生の中で数多くの失敗を繰り返している。最初に売りだしたソケットは全く売れなかった。戦時中の爆撃機「明星」試作機はあえなく空中分解に終わっている。証券業界にも乗り出したがこれも住友財閥に吸収されてしまった。
だが、彼と凡庸な経営者との違いは、失敗を成功の糧としたことであろう。幸之助自身こう言っている、「失敗すればやり直せばいい。やり直してダメなら、もう一度工夫し、もう一度やり直せばいい」。
幸之助が神様と呼ばれる所以はもう一つある。それは彼の一生が単なる金もうけに終わらなかったことだ。ここがホリエモンに象徴される現代のIT長者どもと決定的に違うところだ。
現在もパナソニックの綱領とされている「産業人たるの本分に徹し社会生活の改善と向上を図り世界文化の進展に寄輿せんことを期す」は1929年に幸之助が制定したものだ。また1932年には全社員を前にして「水道哲学」「250年構想」を熱く語った。物資を廉価に国民に供給することによって250年後に我が国をユートピアにしたいと夢を描いて見せた。
彼は夢を語るだけではなかった。下町観光名所の一つ浅草、浅草寺の雷門は1865年に焼失した。その後何回か仮設の門が設置されたが、現在の雷門と大提灯は幸之助がポケットマネーで寄進したものである。この他、故郷和歌山ではさまざまな施設が幸之助の寄付によって作られている。
幸之助のユートピア実現への思いは寄付にとどまらなかった。1946年、PHP(Pease and Happiness through Prosperity)研究所を設立し、「物心両面の繁栄によって平和と幸福を実現したい」という幸之助の願いを倫理教育の形で具現化した。そして現役を引退して後の1979年、晩年最後の社会奉公として私財70億円を投じて、茅ヶ崎に松下政経塾を創設した。平和と幸福の実現には優秀な政治家の育成が不可欠であると考えたからだ。
創設30年を超えた現在、卒業生は250名を超え、100名を超える人材が政治の場で活動している。主な国会議員をあげると、衆議院議員では逢沢一郎、高市早苗、野田佳彦、前原誠司、松原仁、樽床伸二、原口一博、玄葉光一郎など。参議院議員では中西祐介、福山哲郎など。さらには松沢成文前神奈川県知事、村井嘉浩宮城県知事などなどである。そして2011年8月、野田佳彦1期生がついに内閣総理大臣に就任した。
日本を担う政治家を育てるという幸之助の目的の一つを果たしたことになる。しかし、今永田町でなされているドタバタ劇を草葉の陰で松下翁がどんな思い出観ているのだろうか。きっと「晩節を汚してしまった」と臍を噛む思いに違いない。
松下政経塾で学んだ者たちは弁を弄する技術、向こう受けするパフォーマンスは身に着けたかもしれないが、肝心要の志や人間力は育たなかったようだ。結果、松下政経塾はハンドルのないレーシングカーのような政治家ばかりを排出する政治屋教習所になってしまった。
幸之助が丁稚奉公を通して身に着けた人間力は人から教え授けられるものではない。ここを理解しなかったことが松下翁、最大の誤算であったのではないだろうか。しかも、商売と違って国政は「失敗すればやり直せばいい」では済まない。一度の失敗は国の将来を決定的に危うくする。
橋下徹が立ち上げた維新政治塾にも3000名の応募者が殺到したと聞く。もちろん中には志高い者もいるだろう。しかし、橋下ブームに便乗して政治の場で生計を立てようとする喰い潰れも少なくないのではないだろうか。
私は政治家養成所が我が国の政治がどんどん劣化していくように思えてならない。

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