投稿日:2012年4月9日|カテゴリ:コラム

3月30日の新聞に3名の死刑執行が大きく報道された。後ろの方の小さな記事として掲載されるならいざ知らず、なぜ死刑執行がトップ記事なのだろう。理由はこの執行がなんと1年8カ月ぶりだからだ。
2年半の民主党政権下における死刑執行は、一人目の千葉景子大臣の2名と、今回の小川敏夫大臣の3名だけだ。残る、柳田稔、仙石由人、江田五月、平岡秀夫の4大臣は1通の執行命令書にもサインしなかった。
柳田、仙石両氏は在任期間が短かったと言ういい訳が成り立つが、江田五月に至っては「自分は死刑廃止論者である」と公言して確信的に執行手続きを行わなかった。平岡もまた慎重な姿勢を崩さなかった。

日本国憲法第13条は「すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」とある。
日本国民は公共の福祉に反しない限り、他人に生殺与奪の権利を奪われることがあってはならないのである。生殺以前に他人から身体を傷つけられたり体内に接触されることもあってはならない。そういうことが有れば傷害罪あるいは暴行罪に問われる。これに対する例外が国家資格を持つ医師による医療行為なのだ。
では他人の生命を奪ってよい例外的行為があるのだろうか。ある。それが刑法に規定された国家による死刑である。死刑とは、ある個人が公共の福祉に重大な違反をしたと判断した時に、国民に代わって国家がその者の生命を奪う行為と言える。
ただ、いくら公共の福祉に反する重大な行為があったとしても、国家による殺人が許されるのかという議論がある。死刑廃止論者の冤罪問題、国家による乱用の危険性と並んで重要な反対根拠としているところだ。
国際的にも1989年12月に国連で自由権規約第2選択議定書(死刑廃止議定書)が採択されて以来、世界中で死刑制度廃止の流れが加速している。2010年現在、死刑を廃止している国が96カ国、限定された犯罪以外死刑を廃止した国が9カ国、死刑制度は存続する者の実際には死刑を執行しない国(死刑執行モラトリアム国)が34カ国、依然として死刑を執行している国が58カ国となっている。
我が国においても戦後間もなく死刑制度の是非を問う提訴がされた。昭和23年のいわゆる死刑制度合憲裁判である。尊属殺人、殺人、死体遺棄によって広島高等裁判所において死刑判決を受けた事件で、弁護団は、死刑は憲法第36条によって禁じられた「公務員による拷問や残虐刑の禁止」に抵触するとして最高裁に上告した。
昭和23年3月12日の最高裁大法廷は「国民個人の生命は尊貴なものではあるが、社会福祉にとって重大な脅威となるような違反に対しては憲法31条に定められている通り、適切な法的手続きによって奪うこともできる」とした。この判決以降、死刑制度は法治国家である我が国に厳然と存在する極刑なのである。そうであるならば、司法で確定した以上、行政は粛々と計を執行しならないのではないか。
ところで、友人から「死刑より重い刑はないのだろうか?」、「死にたい人がいて、死が苦しい生からの解放ならば、刑としての死は、果たして重いのだろうか?」という疑問をぶつけられた。確かに大阪教育大学附属池田小学校事件の犯人である宅間守は死刑確定後、自ら早期執行を求めて、約1年後の平成16年9月14日、大阪拘置所において死刑を執行された。宅間にとって死刑が極刑であったのか、疑問は残る。
一方で、平成17年自殺志願者をネットで募って、3名を殺害した事件があった。犯人は人が断末魔にもがき苦しむ姿をみると興奮するという変質者だったが、その時の調書によると、被害者たちは自殺を志願していたにもかかわらず、いざ殺されると分かった時、「助けて!」と懇願したようだ。この事実から見て、人は自殺は望んでも、他人から殺されたくはないのだと考えられる。やはり死刑は極刑なのだ。

現在、日本において死刑執行を最終判断するのは法務大臣となっている。刑事訴訟法475条第1項は「死刑の執行は、法務大臣の命令による。」と定めている。またこの命令は、上訴権回復、再審の請求、非常上告、恩赦の出願・申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であった者に対する判決が確定するまでの期間は算入されないなどの但し書きはあるものの、判決確定の日から6ヶ月以内にしなければならない(刑事訴訟法475条第1項本文)、こととなっている。
なぜ刑の確定から6カ月以内なのだろう。その根拠はよくわからないが、絞首刑は踏み板が外れて身体が床下に落下し、全体重が首にかけられたロープにかかった瞬間に、頸骨が脱臼し、頸動脈の流れが止まる。このため、瞬時に意識を失ってしまうためそれほど苦しまずに死ぬものと考えられる。
死刑囚をもっとも苦しめることは、いつ執行されるか分からない状況で毎日を過ごすということなのだと思う。「今日執行か?明日執行か?」と、看守の一挙一動にびくびく過ごす時間こそが死刑囚に与えられた厳罰なのではないだろうか。
この観点からいくら死刑囚といえども、苦しく、不安な日は6カ月以内にするのが適当と判断したのだと、私は思う。ということは6ヶ月も苦しんだならば、十分に罪を償ったのだから速やかに死刑執行してあげる方が慈悲というものだ。
死刑執行を回避してきた法務大臣は自身が法令違反をしていることになる。ところが刑事訴訟法475条には罰則規定がないのをいいことに、多くの歴代法務大臣が職務怠慢、違法行為をしてきた。しかも、自分は死刑囚を延命させたと自己満足しているかもしれないが、皮肉にも死刑囚をより長期間苦しめる結果となっている。
死刑執行命令書にサインしない違法法務大臣は民主党政権に限ったことではない自民党政権下においても多数の法務相が執行をしてこなかった。海部内閣時の佐藤恵は在任312日の在任期間中、宮沢内閣時の田原隆は404日の在任期間中ただの一人も死刑執行しなかった。この結果、先の3名の死刑が執行された現在でも132名の死刑囚が全国7か所の拘置所に収容されている。

死刑制度の存廃は哲学的問題を含んでおり、一朝一夕で結論が出るとは思えない。廃止論者は国連議定書と廃止国が増加している現実を一つの拠り所にしている。がしかし、1989年の国連採択の背景には、世界中に現政権に楯突く政治犯が次々と死刑乱用がなされる国が多いことがあったのだと思う。
しかし、戦後死刑を宣告された者の中に政治的乱用の被害者と思われるものがいるだろうか。私が、何ならかのスケープゴートとされたと思っているのは昭和62年八王子医療刑務所で獄中死した帝銀事件の故平沢貞通くらいのものである。かと言って、今後とも政治目的の死刑乱用が起きないという保証はないのだから、死刑制度の存置には十分な議論を必要とするだろう。
しかし、現在死刑が確定している者については法に定める通り執行すべきだと考える。少なくとも、時の法相が個人の思想・信条から法律で定められた職責を果たさず、その結果、執行のペースが左右されることは、法治国家として本来許されない。
死刑制度に否定的で初めから執行しないと決めているのなら、政治家として法相の職を引き受けるべきではない。我が国で法務大臣に就任するということは死刑執行命令書に署名する職責を負うということだ。死刑執行命令書に署名しなかった法務大臣は不作為の不法行為犯と言える。法務大臣が自ら法を犯してはいけない。
加えて、2009年から裁判員裁判が始まり、これまで13人に死刑判決を言い渡している。一般市民を司法の場に引っ張り出して、人の生命を奪うかどうかの決断を強いている。一般の市民に苦渋の決断を迫る以上、行政は今まで以上に厳粛にその結果を受けて、粛々と刑を執行して然るべきであろう。

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