投稿日:2012年2月20日|カテゴリ:コラム

この4月に2年に1度の診慮報酬改定が行われる。2月10日に中央社会保険医療協議会(中医協)が改定案を小宮山厚労相に答申した。財政赤字が膨れ上がる中、なんとかマイナス改定にはならないとのことだ。
診療科不均衡による医師不足で過重労働を強いられている救急科、産科、小児科などの病院勤務医の負担を軽減すべく財源を重点投入する。また、癌や認知症の治療に対しても手厚い対応をとる。さらに在宅医療を一層推進するために1500億円を充てるという。具体的には24時間体制の在宅療養を標榜する診療所に対する加算額を増額し、緊急時や夜間の往診料を増額する。

最近、私の友人の母上がご逝去された。享年100歳。大往生である。友人へ宛てた私のお悔やみに対する返礼の手紙にこうあった。
「お袋の最終段階を看ていく上で家族は在宅医療を求めてはいませんでした。ただ、みとりをしてくれる地域の病院がなくなってしまったために家においておかざるを得なくなっただけです。」
私は積極的にではないが、往診を頼まれるとできる範囲で応じてきた。精神科医で往診をする医師はかなり珍しいとみえて、一時は近隣他区にまでバイクを飛ばすことになった。こうして、在宅医療が声高に叫ばれる前から少なからず在宅医療に携わってきたので、在宅医療の実態を多少とも知っている。
私が往診した患者さんとその家族にも友人と同じことを言う方が少なくない。もちろん、家で最期を迎えたいと望み、自分たちでみとりたいと望む家族もいる。しかし、病院で診てもらいたいが、受け皿となる病院がないために在宅医療、在宅介護を続けているケースが相当あるのだ。
医師の立場から見ても、聴診器1本の在宅医療には限界がある。核家族化が進んだ現在、いくら介護保険と在宅医療を活用しても、人生の終盤戦を家族で診ていくのは相当無理がある。家族が多大な犠牲を強いられるだけでなく、患者さん本人も快適な状態を保てない場合も多いのだ。
ところが現在、家でみとることが絶対的に良いことであり、病院で過ごすことはよくないことと言う固定観念が作られている。今回の診療報酬改定に際しても「在宅医療拡充に対する国民のニーズに応えるため」と謳っている。軽々しく「国民のニーズ」と言うが、ここで言う国民とはいったい誰をさすのだろう。私の友人のような意見の者は国民ではないというのだろうか。
医療費抑制を至上課題とする国が地域の中小病院を潰した結果、3カ月以上の入院を引き受けられる病院はなくなってしまった。患者さんや家族には家で療養する以外に選択の余地がない。そういう状況を作り上げたうえで、国民のニーズが在宅医療の拡充と論じられてもしらけてしまうだけだ。
むろん、在宅医療拡充の必要性を否定するものではない。自宅で最期を迎えたい患者さんや家族のためのより手厚い医療体制も、それはそれで必要と考えられる。
私が言いたいのは国が使う「国民」という言葉にはよほど用心してかからないといけないということだ。
自分たちが希望する政策を通すために、御用学者を集めた審議会や有識者会議という胡散臭い機関を使い、ヒアリングというこれまた単なる通過儀礼のような手順を踏んで、いつの間にか「国民の声」を作り上げるからだ。
こういった政策の多くは真に国民の声を反映するものではない。国の台所事情に基づいた机上の計算の結果であることが多いのだ。ところがそれがいつの間にか「国民のニーズ」になってしまう。こういった情報操作を監視、批判すべきマスコミも今や政府のお先走りに堕している。国は偉大な詐欺師であり、マスコミはその手先の大嘘つきと心してかからなければいけない。

消費税、議員定数、公務員給与、原子力行政、TPPなど、我が国の将来を左右する問題が目白押しである。こういった課題が議論される際に必ずや「国民」という言葉が頻発されるだろう。その際には「国民」という言葉を「国家」と置き換えて読み返してみる必要があろう。

【当クリニック運営サイト内の掲載記事に関する著作権等、あらゆる法的権利を有効に保有しております。】