投稿日:2012年1月29日|カテゴリ:コラム

イソップの寓話に「金の斧」という話がある。皆さんよくご存じだと思うが、改めてあらすじを述べる。

あるきこりが川辺で木を切っていましたが、手を滑らせて斧を川に落としてしまいました。きこりが困り果てていると、そこにヘルメス神が現われて川から金の斧を拾ってきて、「お前が落としたのはこの金の斧か?」と尋ねました。きこりが「違います」と答えると、ヘルメスは次に銀の斧を拾ってきて、「それではこの銀の斧か?」と尋ねます。きこりはそれも違うと答えます。ヘルメス神が最後に鉄の斧を拾ってくると、きこりは「これが私の斧です」と答えました。ヘルメスはきこりの正直さに感心して、金、銀、鉄、すべての斧をきこりに与えました。
これを知った欲張りのきこりは、わざと斧を川に落として途方にくれたふりをしました。ヘルメスが前の時と同じように金の斧を持って現れると、欲張りきこりは「それが私の斧です」と答えました。ヘルメスは呆れて何も渡さずに去ってしまいました。おかげで欲張りきこりは金の斧どころかもともと自分が持っていた鉄の斧も失ってしまいました。

この話は無欲と正直を美徳とする寓話として解釈されていて、同じような話は日本の民話にも存在する。「瘤取り爺さん」、「舌切雀」などなど、多くの民話が欲張りを諫めている。見方を変えれば、それだけ昔から欲張りで嘘つきが多かったということだろう。
さて、この「金の斧」をよくよく考えてみると、このきこりが単なる無欲な正直者だとは思えない。むろん大嘘吐きの業突く張りだというわけではない。ただこのきこりが正直者であるというよりも、きこりという仕事に誇りを持った職人気質の男であり、物の本当の価値を知っていた人間であると評価する方が奥深い。
彼が金の斧や銀の斧を断ったのは、金や銀は値が張って、飾るにはよいかもしれないが、そんな柔らかい材料でできた斧は木を切り倒すという本来の目的には適さない、ということが大きな理由であったのではないだろうか。
値段の高低と有用性の高低とが無関係であることは、斧に限らずあらゆるものに言える自明の理である。ところが、すべてを金(通貨)の尺度でしか判断しなくなった現代では、そんな当たり前のことが分からない人(欲張りきこり)が増えている。

タレントが単に料理を食べて、「う~~~ん 美味しい」と言って見せるだけの何の意味もないグルメ番組を目にすることがある。そこで供される料理のほとんどは確かに不味くはないのだろうが、中には「この人たちは舌で食べているのか?」疑いたくなる料理もある。
たとえば、世界三大珍味のフォアグラとキャビアとトリュフをてんこ盛りにした丼物。確かに材料費からいって目玉が飛び出るような高価な一品かもしれないが、ごちゃまぜにされてしまったらそれぞれの風合いが失われてしまって美味しいはずがない。それなのに、画面の中のタレントはこう言う。「美味しい 最高です 究極の丼です」と。さらには、これを見て「わあ 美味しそう 私も食べてみたい」という視聴者が少なくないのだから困ったものだ。
こういった食べ物は食欲を満たすのではなく、金銭欲を満たす料理。本当の味覚が退化して金銭感覚だけが肥大した現代人にぴったりの一品なのかもしれない。
衣料装飾品もそうだ。もともと大型のトランク作りで定評のあるフランスブランドのスカーフを気取って身に纏ったり、馬具製造から始まって革製品に定評のあるブランドのセーターを得意げに着たり。本当の物の価値を知っている人が見たら吹き出すようなおしゃれ姿で得意顔。

スポーツの世界に「名選手必ずしも名監督ならず」という言葉がある。むろん、ある程度以上の技量が備わっていなければ人を指導することはできないが、人を指導、育成するにはプレイする能力とはまた質のちがう能力を要求される。ところが先の名言があるにもかかわらず、スポーツの技量が優れていると何でもできると錯覚する人が少なくない。
元スポーツ選手の国会議員が大量に排出される理由だ。ちょっとサッカーが上手かっただけで、「旅人」とか称してあちこちに顔出す勘違いまで出てくる始末。
こういった錯覚は一般の社会においても言える。売り上げナンバーワンの名営業マン=名課長ではないし、名部長=名社長でもない。逆に、課長時代にはさしてうだつのあがらなかった人が重役に就任したとたんに大活躍することも稀ではない。適材適所。営業に向いた人と、人や組織をマネージメントすることに向いた人がそれぞれいるのだ。
そもそも、多くの人のトータルの能力はそれほど差がないから、何かに優れていれば、何か欠点があると考える方がよい。それなのに、営業売上で好成績をあげると、自分はすべてにおいて他人より優れていると錯覚してしまう。周囲も同じように錯覚するから始末に悪い。質や特性を考慮しないで、何か一つの軸における優劣でしかものを判断できない日本人が多くなってしまったのではなかろうか。
人々から物を多面的に深く考える能力が衰えていった原因はなんだろう。それは事実をあるがままに捉えて、多面的、総合的に考える訓練をされなくなったことにある。

小学校に入る前から学力という、人間の能力のごく一部だけを取り上げて何年にもわたって競争させられる。学校でよい成績をとる能力は、それはそれで重要な能力かもしれない。しかし、その能力は人間の能力のごく一部であって、それがその人の能力のすべてではない。ところが今の教育ではそのほかの能力は見向きもされず、人の価値が偏差値という無味乾燥な数値に置き換えられてしまう。
テレビの普及も思考の単純化を大いに促進した。すべての出来事が良いか悪いか、偉いか偉くないかと単純化されて表現される。「水戸黄門」という化け物のようなロングヒット番組がその象徴であろう。登場人物は初めからも悪い人と良い人に色分けられて、見かけ通りの筋立てで話が進む。視聴者は安心して観ていられる。なぜ安心かといえば思考を放棄できるからだ。
ワイドショーは当然としても、嘆かわしいことに報道番組まで視聴者の思考放棄に一役買っている。一つの事件である人物が容疑者となると、その人物の表情や仕草が選別されて悪人らしいカットだけが映像化される。お茶の間では容疑者=悪い人、被害者=よい人という単純な図式に乗って話が出来上がってしまう。こうやって現実の世界が水戸黄門化されていくのだ。テレビが急速に普及した昭和50年代に大家荘一が発した、「一億総白痴化」という言葉はまさに現在の日本社会を正確に予言していたと言える。
この白痴化推進の大元を辿ると、日本社会のアメリカナイゼーション(グローバリゼーション)に行きあたる。新興国家アメリカは多民族、多宗教の入植者集団である。こういった集団を一つに纏めて社会を機能させるために、多くの要素を切り捨てて一つの軸だけに単純化し、定量的に評価せざるを得ないのだと思う。
単一民族で深い文化と高い教養を持っていた日本社会が、敗戦によって豊かな物資と引き換えに、この愚かなアメリカ型思考をとりいれてしまった。複雑な事象を評価する時、その他多くの要素に目をつむって、なんでも単純に一つの軸で定量的に判断する方がはるかに労力が要らないからだ。

今や物事を一面的、定量的にしか判断できなくなった日本人。学校では点数取りにあくせくし、会社に入っては営業収益という数字に追いまくられる。その結果、傍から見れば出世したと見えるのに、実際には自分に向かない仕事や職責を背負いこんで要らぬ苦労をする。そしてその苦労の割に成果が上がらず、自らも幸せ薄く、空しさだけが残る人生を送る人が後を絶たないのではないか。
多くの日本人が、金の斧欲しさに鉄の斧までも失ってしまった欲張りきこりになってしまった。

今一度自分の生き方を再考してみよう。見かけ倒しの金の斧ではなく、切れあじ鋭い鉄の斧の人生もいいもだと思うのだが。

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