愛猫と戯れていて突然疑問が湧いた。人間の子供の頭を撫でる時は後ろから前に「いいこ、いいこ」するのに、愛猫を愛でる時は前から後ろに撫でる。なぜだろう?
答えは簡単、毛の流れが人間は後から前なのに対して、猫では前から後だからだ。猫だけではない、犬も、兎も、鼠も、みな頭部の毛は後方への流れている。動物学者ではないので確実なことは言えないが、前に向かって毛が流れているのはおそらくヒト特有の現象ではないだろうか。
それではどうしてヒトの髪の毛が前に流れているのかというと、頭頂部と後頭部の境付近、解剖学的に小泉門と呼ばれる辺りに旋毛があるからである。この旋毛を中心にそれより前は前方に、それより後ろは後方に毛が流れる。
ところで、旋毛はヒト以外ではどこにあって、何のためにあるのか。少なくとも猫でははっきりと旋毛といえるような物は見当たらない。だが眉間の辺りで毛の流れの方向が変わる。旋毛に類する場所と言える。
旋毛の存在理由を推理する時、この場所がヒントになるだろう。雨の中を前方に向かって走っている時、視界を十分に確保するためには、毛の流れが目を中心として後方へ流れていた方がよい。雨滴が毛の流れに沿って目の周囲から後方へと移動しやすいからである。逆に毛の流れが目の方向に向かっていたならば、雨滴が眼窩へと溜まってきて見にくくなってしまう。雨だけではない。埃の類に対しても同じことが言える。
ヒトは他の動物と違って直立しているから毛の流れにも違いがあって当然と考える人がいるかもしれない。がしかし、直立歩行の際にも、雨や埃から視界を確保するという観点からは眼窩を中心にして毛が後方に流れているほうが有利だ。毛が前に向かって生えているがために、目の前を雨がだらだらと垂れ落ちてとても見にくい。雨の中でサッカーやラグビーなどのスポーツをやったことのある方ならば必ずこういった経験をお持ちのはずだ。
だいたい、毛が伸びると顔の前面に垂れてきて、毛自体が視界を奪ってしまう。私たちは美容上の理由以前に、生存にとってもっとも重要な視覚をより有効にするために散髪をかかすことができない。こう考えると、私たちの毛の生え方は生物学的にはかなり異例の進化と言える。
こういった不利にもかかわらず、なぜヒトの旋毛はこれほど後ろにあるのだろうか。あくまで私の想像だが、旋毛の移動は合目的的な変化ではないのだと思う。ヒトは前頭葉を中心として大脳皮質が異様に大きくなった。これに伴って頭蓋骨の前半分が大きく引き伸ばされたために、旋毛も否応なく後ろに退かされたのではなかろうか。
大自然の中で獲物を追って狩りをしたり、外敵からの攻撃を逃れるために視力は必要不可欠な機能である。我々はその重要な視界の確保を犠牲にしても大脳皮質の肥大を選択したということになる。その結果、外観も動物としてはかなり風変りな異端児となった。
そもそも、毛が頭部、陰部、腋窩部など数か所を残して大部分が抜け落ちてしまっている。私たちは見慣れているから自分たちの姿に違和感を覚えない。さらに種保存の本能に支配されて、この特異な姿をむしろ美しいと感じる。しかし、改めてヒトの裸体を眺めてみるとはげちょろけで、相当不格好な生き物のように思う。もし宇宙人が地球上の生物を観察したとしたら、頭のてっぺんと生殖器付近にだけもじゃもじゃをつけたヒトの異容ぶりに、不気味がるのではないだろうか。
この禿げっぷりも摩訶不思議である。ヒト以外の類人猿は顔面、手掌、足底以外は毛で覆われている。進化の過程のいつごろに他の部分が脱毛したのだろう。また、なぜ頭部と陰部だけは毛が残っているのだろう。疑問は尽きない。
猫を撫でながら、つらつらと愚にも付かないことに頭を巡らしていた。それにしても、やはり毛は後の方に撫でる方が自然である。
投稿日:2012年1月16日|カテゴリ:コラム
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