あけましておめでとうございます。しかし、今年の「おめでとう」は大きな声で言うことが憚られる。
昨年3月11日14時46分18秒、宮城県牡鹿半島南東沖130kmの海底を震源とした東北地方太平洋沖地震はその一撃と派生して起こった大津波によって東北関東広範囲に壊滅的な被害を与えた。
地震もさることながら、数十分後に北海道から千葉にかけての海岸線一帯を襲った大津波の威力は想像を絶するものであった。場所によっては高さが40mを超え、海岸線から数キロの地点にまで侵入。地震と津波による死者・行方不明者は2万人に達した。さらに、その津波によって東京電力福島第一原子力発電所がメルトダウンを起こし、周辺地域からの避難者は十数万人に達している。この放射能汚染の解決までに後何十年かかるのかさえ不明の状態が続いている。
今年はこの大震災、それに引き続く原子炉事故によって数10万に上る人々が我が家で正月を迎えることができていない。その人たちも去年の今頃は各家庭で新年を寿ぎ、一年の計を立て、佳き年であらんことを祈ったに違いない。その僅か2ヶ月後にその祈りがこれほどむなしいものとなると誰が想像しただろうか。
地球はこれまでも破壊と創造を繰り返して今の姿にある。ある地球物理学者によれば、地球はここ数百年が異様に静かすぎたのであって、スマトラ沖から東日本大地震へと続く、今の状態がむしろ当たり前の姿なのだそうだ。
エベレスト山の頂上も昔は海底であったことを考えれば納得できる。だが、普段我々はたかだか7,80年の一生の尺度でしか物を考えられない。エベレスト山にある貝殻のことを考えながら家を建てたりはしない。だから、地球のごく日常的な営みがしばしば人間にとって想定外の大惨事を引き起こすことになる。
破壊と創造の繰り返しと言うが、破壊は自然の一撃にしろ、人の愚かな戦争にしろ、一瞬で成立する。しかし、創造は長い年月を必要とする。台風で倒された木一本でも、その高さまで成長するのには少なくとも数十年を要するのだ。
さらに私たちの平穏な生活という視点に立つと再生や創造には自然の力だけでなく自分たちの不休の努力を必要とする。その努力とは人の一生の尺度の努力だけではなく、地球的な尺度も考慮しておかなければならない。
とは言っても何万年も先のことを考えて行動することは無理だろう。しかし、少なくとも孫子の代の生活を念頭に置いた計画を立てなければならないことを今回の震災で学んだはずだ。
ところが今の人間社会の営みはどうだろう。地球的尺度の再生、創造どころか、目先の利己心を満たすために子供世代の生活さえ脅かしている。いや、十年先の己の首さえ絞めている。何も生産せずに、ただ一日先の為替差益で富を得ようとする経済システム。破滅しか待ち受けていないのに止むことのない狭量な宗教対立。廃棄物質の最終解決法も持たないうちに行っている核分裂反応利用。次の選挙のことしか考えない政治。生涯獲得所得のことしか頭にない官僚。
今の私たちの行動は再生、創造の一助どころか、自然の再生力を阻んでいる。今回の震災で一番の災いが、人間が作り出した原子炉であったことが何よりの証拠である。
自然の脅威はどんなに科学が発達しても畏れ、祈るしかない。しかし、己の生き方、社会の仕組みを変えるのは我々自身でしかあり、我々がなさなければならない責務である。
まずは強欲な搾取根性を捨て去り、人生目標を継続可能な慎ましい幸せに変えよう。目先の不自由を偲んで思い切った変革をしよう。既存の硬直した社会システムを変革するためには多大な自己犠牲を強いられるだろう。またこの1年で達成できるとは思わない。しかし、今私たちがchangeしなければ、未来はない。
数年先の正月に、声高らかに「あけましておめでとうございます」と言えるように今年を変革の一年目として頑張ろうではないか。