投稿日:2011年12月12日|カテゴリ:コラム

井上陽水の初期の作品に「人生が二度あれば」という歌がある。苦労を重ねてきた両親の姿を見て二人がもう一度青春をやり直せたらと望む息子の気持ちを歌った唄だ。
秦の始皇帝は中国を統一しこの世で臨むものすべてを手に入れると不老不死の仙薬を求めて部下に命じて伝説の蓬莱の国へと赴くよう命じた。ヒトラーも不死の研究をさせていたようだ。不老不死あるいは再生は人間の永遠の願望であるらしい。
自分のこれまでの人生を振り返ってみれば、後悔すべき出来事は多々あるし、60年の年の功を持って青春をやり直せば今少し業績を残せるかもしれない。しかし、実際に人生をやり直しさせてやると提案されたとしたら、私はおそらく逡巡してしまうだろう。
野次馬根性旺盛な私だから、人生のターニングポイントで別の決定をしていたらその後の人生がどう展開したか、興味津津ではある。しかし、それは傍観者として眺めてみたいという話である。実際にやり直すとしたら、またくそ面白くない勉強をして、嫌いな試験を受けなければならない。まっぴらごめんだ。
それに、違った決定がより良い結果に結び付くという保証もない。畢竟、人生とは「待った」の効かない一度きりの大博打だからこそ、かけがえのない宝物と言えるのではないだろうか。
とは言っても、私がそう言えるのは自分のこれまでの半生にそれなりの充足感と感謝を覚えるからなのだろう。辛酸を嘗めるような悲惨な出来事しか記憶にない人は、やはりやり直したいと切願するだろう。生まれて以来ずっと、親から虐待を受けている子供等は誕生そのものをやり直したいと思うに違いない。
人生やり直し願望の強さはそれまでの体験によって人それぞれかもしれないが、不死願望はどうだろう。こちらも各人各様である。私はことさら早死にしたいとは思わないが、社会や家族に貢献できなくなったならば死にたいと考えている。みんなのお荷物になって老醜をさらしたくない。人は生きていると必ず人には言えない恥ずかしい秘密を増やしてしまう。不死を望まない理由はそこにある。自分の中に溜まっている恥をこれ以上増やさないでリセットしてしまいたいというのが本音である。
私に限らず、殆どの人が「そういつまでも長生きはしたくない」と口では言う。しかし、よく見ると本音では「一分一秒長生きしたい」を願っている人が少なくない。中には「この人は不老不死を真面目に信じているのではないか」と疑いたくなる人もいる。きっとこういう人は一点の曇りもない澄み切った人生を歩んできたのだろうが、私には想像できない。

人生のやり直しや不老不死に関する考え方は人それぞれだが、万人に共通した願いは「苦しまない死」である。誰もがトンコロリと死ぬことを願っているのだ。
長野県佐久市には「ぴんころ地蔵」が祭ってある。ぴんぴん生きて、ころっと死ぬという、誰しもが希求する生き方を求めて全国からお参り客が後を絶たないという。実際に長野県は長寿県であり、その中でも佐久市は男性、女性ともに飛び抜けて長寿である。65歳以上の高齢化率は全国平均が21.3%に対して、佐久市は25.2%。また、100歳以上の超高齢者の人口比率は全国平均が25.28/10万人なのに対して佐久市のそれは71.92/10万人である。一方、寝たきり老人の比率は全国平均の半分程度、認知症で生活に支障を期待している高齢者の比率も全国より下回っている。その結果、高齢者の一人当たりの年間医療費は全国平均の83万円を大きく下回り65万8000円にとどまっている。つまり、健康なお年寄りが多い地域と言える。
佐久市が長寿市である理由は自然豊かな自然環境に因るだけではない。まずは持家比率が高く、2世代、3世代同居世帯が多い。さらに従来から地域密着医療の先駆け的存在である佐久総合病院を中心として、市をあげて高齢者の健康保全に力を注いでいる。保健指導活動、食や運動など保険福祉に関する教育・実践活動に力を注いでいる。
保健、福祉にお金をかけるとそれ以上の医療費削減につながるとして全国の自治体が佐久方式を勉強している。こういう活動は福祉関連支出の削減よりも何よりも、お年寄り自身が望むぴんころ死を実現する可能性を高めるということがもっとも素晴らしい点である。
一見矛盾しているように聞こえるかもしれないが、ころっと死ぬためにはそれまでぴんぴん生きていなければならない。どこかに重大な持病を抱えていると、ころっと死ぬ前に、その病気で長い期間苦しまなければならないからだ。
たとえば、高血圧、動脈硬化の果てに脳卒中を患えば、相当長い期間半身不随あるいは寝たきりの生活を余儀なくされる。糖尿病で腎不全になれば死ぬまで週3日は透析を受けなければならない。
日頃から健康でぴんぴん生きていれば、すべての臓器や器官が自然に老化していき、各人の持ち時間がくると一斉に「それではみなさんさようなら」と活動を停止する。それほど苦しまずに三途の川を渡ることができる。この死にざまを「天寿を全うする」と言うのだろう。
ここで一つ皆さまが大いに勘違いしやすい点がある。ぴんぴん生きるということは、長生きすることを目的に健康状態に汲々として生き長らえる状態を言うのではない。心身ともに充実した日々を送った結果、長生きをするということなのだ。長く生きることは結果であって目的ではない。明日お迎えが来るかもしれないから、今日この時を実りある1日にしようという姿勢こそがぴんぴんなのだ。だがしばしば生きる目的と結果が取り違えられて、ただの健康オタクを増やす結果となる。
だが実際は、ぴんころを実践した超高齢者には健康オタクは少ない。亡くなる間際まで畑仕事をし、酒と煙草をたしなむ生涯現役の人が多いのだ。
こう考えてみると、ぴんころをより多くの高齢者に実践してもらうためには健康教育も必要だが、お年寄りに家族や社会の中で活躍できる一定の役割を与えてあげることこそがもっとも重要なのかもしれない。
ますます進行する超高齢者社会に対して介護施設を増設するだけではなく、もっとお年寄りに活躍していただく場を増やす必要があるのではないだろうか。

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