最近我が国に登場し、急速に社会問題化されてきた病名がある。それが現代型うつ病である。
現代型うつ病は新型うつ病あるいは逃避型うつ病とも呼ばれ、社会的に認知されつつあるが、医学的に定義された正式の病名ではない。特徴としては比較的若い世代(20~30代)の勤労者に多く見られ、①仕事などの嫌なことはできないが、趣味のことや友人との飲み会などには活発に参加する、②人の評価を極端に気にする、③プライドが高くそれを守ることにエネルギーを消費する、④抑うつ気分はあまり目立たず倦怠感、易疲労感、億劫さが主症状、⑤自責感がなく、他罰的で人を責める⑥このために円滑な対人関係を維持することが難しい、などである。この他、従来のうつ病が不眠を呈することが多いのに対して過眠を呈することが多く、食欲に関しても従来のうつ病のように食欲不振になるのではなく、むしろ過食して太ってしまうことが多い。
こういう若者の絶対数が増えているのか否かは分からないが、昔に比べて敷居が低くなり、駅前ビルに乱立するメンタルクリニックに受診する人の中にこういうタイプの患者さんが増えたのは間違いない。
現代型うつ病が社会問題となっている理由は医療と産業活動との両分野における困惑にある。医療面では狭義のうつ病に奏功する抗うつ薬への感受性が低い。また、休息をとらせて義務から解放するという従来のうつ病に対する精神療法では解決しない。このために、いたずらに抗うつ薬を始めとする向精神薬の処方が長期間にわたり、しかも事態はいっこうに改善しないという状況が増えている。
企業はその対応にもっと混乱している。仕事を覚えてもらおうと少し厳しく指導すると不調を訴えて出社しなくなる。金曜日には元気にしていたのに月曜日になると遅刻や欠勤を繰り返す。やがて「うつ状態」という診断書を提出して長期休暇に入ってしまう。療養中のはずなのに仲間からの誘いには応じて飲み歩いている。中には海外旅行で真っ黒に日焼けしてくる者までいる。厳しく叱責あるいは解雇したいところだが、診断書が出ている以上そういうわけにはいかない。いったいどう対応してよいのか皆目見当が付かないのである。
家族も同様に戸惑っている。「うつ病の人は励ましてはいけない」という教えが広く啓蒙された。この原則に従って接していても、いっこうによくならない。お昼近くに起きてブランチをとると、夕方までパチンコ屋にいる。夕食後は明け方までパソコンに向かって何やらやっている。業を煮やして「早く仕事に戻るためにも早く寝たら」と注意すると、「そんなふうに強制されると余計やる気が出なくなってしまうじゃないか」と逆に本人から叱られてしまう。患者を取り巻く多くの人がどう対応してよいか分からずに困惑しているのだ。
だがちょっと待ってほしい、そもそもこの病態をうつ病と呼んでよいのだろうか。従来型の診断法を教えられてきた私には、現代型うつ病と称される患者の多くがうつ病とは考えられないのである。
ドイツ精神医学を基礎とする従来の精神医学では症状のある無しだけではなく、深く病因論にまで踏み込んで診断した。すなわち、遺伝歴、生活歴、病前性格、内因および環境因の関与の度合い、経過診断、似た症状を示す身体疾患や薬剤性疾患からの鑑別などを総合判断して診断した。
また、それぞれの因子はただ単に羅列するのではなく、より重要なものとあまり重視しないものに重み付けされた。たとえば、うつ病の精神症状としては、憂うつ、悲哀、億劫、不愉快、絶望、厭世、悲観、不満、寂莫、優柔不断、屈託、羞恥、罪悪・自責感、後悔、当惑などが挙げられるが、憂うつ感や罪悪・自責感を羞恥や当惑などと等価には扱えない。罪悪・自責感は本当のうつ病(内因性うつ病)と診断するためにはかなり重要な症状となる。この点から言って、自分ではなく他人を責める傾向の患者にうつ病の診断はつけがたい。
また、億劫でやる気が湧かないという症状についてだが、本当のうつ病の患者は楽しいはずのこともできなくなる。仕事はできないが旅行は楽しめるという病態にうつ病と診断するのは難しい。
1980年にアメリカ精神医学会が発表したDSM-Ⅲの登場以来、病因論に深く踏み込んだ従来型の診断は精神症状のみを統計的に扱った操作的診断法にとってかわられた。従来型の診断は医師の主観的な判断によるところが多く、技量の差によって診断が異なることが珍しくなかった。すなわち、以前の診断では極めて多数の因子の解析と総合判断力が要求されるために、卒業間もない研修医とベテランの精神科医とでは異なった診断になってしまうことが多かったのだ。また、権威者の独断が客観的な判断を妨げることもあった。DSMやICDの普及はこういった点を補正して誰もが同じ診断になることを目指し、世界中に広まった。
事実、症状リストをチェックして簡単に診断名に辿り着く操作的診断では未熟な研修医でも、看護師、ケースワーカーといった医療周辺スタッフでも同じ診断名に辿り着く可能性が高くなった。
こうして、共通の診断名で多くのスタッフが語れるようにはなった。それどころか、患者自身がチェックリストを使って簡単に自己診断できるようにさえなった。その共通の診断レベルが高かったならば文句なしである。ところがそうはいかなかった。全員が低いレベルの診断で喧喧諤諤議論する事態になってしまったのだ。
考えてみれば至極当然のことで、どんな物事でも習熟の度合いによって成果に差が出るのが当たり前のことではないだろうか。研修医が見逃していた胸のレントゲン写真の陰影をベテランの放射線科医師が見つけることができるのは当然である。ベテランの工員が作った工作部品と新人のそれとに差があって当たり前だ。それと同じことである。デリケートで包括的な精神症状を前にして、習熟度に関係なく同じ診断ができるはずが無い。もしそれができるのならば医学教育は無用の長物と化す。
さらに、売りの一つである客観性さえ怪しいものである。なぜならば、いくら診断基準を列挙して「幾つ以上の項目が満たされれば○○○と診断する」と、一見客観的で科学的なように見えても、それぞれの症状を検知する能力に差があれば診断は大きく異なってくる。入口を間違えれば正しい出口に辿り着く筈がないからだ。
結局、操作的な診断法の台頭が精神科医の診断技能の低下をもたらした、と私は思う。チェックリストを見て診断し、無定見にSSRIを処方するメンタルクリニシャンが多くなってきたことは嘆かわしい限りである。現代型うつ病とはこういった精神医学の混乱が生み出した鬼っ子ではなかろうか。
私は、現代型うつ病と称される一群の患者さんの中には、すでに死語となってしまった神経症やヒステリーの患者さんが少なくないように思えるのだが、それは私が古臭い精神科医だということなのだろうか。