投稿日:2011年11月14日|カテゴリ:コラム

このところ新聞の一面を賑わすTPPという言葉を正確に理解している者がどれだけいるだろうか。私は社会の出来事にそれほど無関心ではない。しかし、経済学を学んだことが無く、医療という井戸の中で生活してきたので、未だTPPの全容を把握できていない。
ワイドショーに登場する町の声を聞いても「食材が安く買えるようになるからいいんじゃない。」、「日本の農業が完全に壊滅してしまう。」、「乗り遅れたら大田区の町工場は潰れてしまう。」といった断片的な発言ばかりで、国民がTPP参加のもつ真の意味を理解しているとは思えない。

TPPとは(Trans-Pacific Strategic Economic Partnership AgreementまたはTrans-Pacific Partnership)の略で、日本語では環太平洋戦略的経済連携協定と言う。経済連携協定(EPA)の一つであり、加盟国間での工業製品、農水産物を含む全品目の関税を撤廃する他、政府調達(国や自治体による公共事業や物品、サービスの購入など)、知的財産権、労働規制、金融、医療サービスなどにおけるすべての非関税障壁を撤廃して自由にする協定である。
現在シンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランドの4カ国が加盟し、アメリカ、オーストラリア、ペルー、ベトナム、マレーシアの5カ国が加盟を表明している。
ハワイで開催されているAPEC(アジア太平洋経済協力会議)において、議長を務めるオバマ大統領へのお土産として日本のTPPへの参加表明という野田総理の暴挙がなされる。
このTPP参加表明がなぜ暴挙なのかと言えば、TPP加盟によって我が国にどのような具体的変化が想定され、それに対して政府がどのように対応しようとするのか全く説明が無いままに飛び乗ったからだ。
野田はこの問題について「国民の議論が煮詰まれば決断する」と言ってきた。にもかかわらず、煮詰まるどころか多くの国民がTPPのTさえも十分に理解しないうちにアメリカへの貢物として捧げだした。これは民主主義をないがしろにする売国の行為と言えよう。
野田と彼を操る一派の国民を愚弄する行為は今回のTPPに始まったことではない。彼は11月3日にカンヌで開催されたG20サミットにおいても、未だ国内で議論真っただ中の消費税引き上げを、勝手に国際公約してしまった。国民に周知する前に対外的に発表し既成事実化するという手法は卑劣極まりない。どじょうを自称しているが正体はどうやら派手好きで悪食の鯉であるらしい。

冒頭にも述べたとおり、私はTPPが日本にどのような変化をもたらすのか、全体を理解しているわけではない。しかし、私の生業である医療にとっては致死的な毒になると考える。なぜならばTPPには医療に関する障壁を取り除くと明確に記されているからだ。これは、数年前にヒットしたマイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画、「SiCKO(シッコ)」に描かれていた、狂気の医療ビジネスが我が国に持ち込まれることに他ならない。
アメリカでは、日本で当たり前となっている国民皆保険制度がない。自由主義を掲げる国アメリカではすべてが自己責任に帰するからだ。したがって病気やけがの治療は原則、全額自己負担である。
当然ながら、お金のある人は高水準の医療を受けることができるが、貧しい人は医療を受けることができずに死んでいく。しかも何でもかんでも「マネー!」、「マネー!」のアメリカのことだから、医療行為の一つ一つのお値段は目の玉が飛び出るほどの額である。喘息治療の吸入薬1本がなんと10,000円以上もする。当然、一部の富裕層を除けば、一般の中流家庭でも、いったん家族の誰かが病気にかかってしまったら、それをきっかけに貧困家庭へと転落していかざるを得ない。
そういう事態を避けるために、中流階級の人々は民間の保険会社の医療保険と契約して、いざという時に備える。こうして、本来営利的性格とは似つかわしくない医療の世界に、金の亡者の代表、巨大資本の保険会社が闖入して医療を取り仕切っている。
営利追求が本来の目的である民間の保険会社がその職務を全うするためにはどうすればよいか。その答えは実に簡単。掛け金だけいいただいて支払わない。映画SiCKOではこの基本方針がぶれることなく徹底的に遂行される現実が克明に描かれている。
TPPが実現すればまた、長年アメリカが日本に要求してきた医療機関の株式会社参入が公然と行われることにもなる。病院が株式会社となるということは、病院の使命が患者の救済から営利追求に切り替わることを意味する。病院は利益を上げることに全身全霊を上げて努力しなければならなくなる。
保険会社と結託した株式会社の医療機関は支払い能力のある人間だけに手厚い医療を提供し、金のない人間は玄関先で命を絶っても無視する。SiCKOの中に、入院していた老人が、医療費を払えなくなったという理由で、点滴用のチューブをつけたまま車で運ばれて路上に捨てられる衝撃的な場面がある。極悪非道なアメリカの医療の実態を象徴するワンカットである。
小泉のブッシュへの貢物であった保険会社の門戸開放が徐々に実を結びつつある。毎日のように観ているとアメリカ系の保険会社の「医療保険」のコマーシャルに違和感を覚えなくなってしまった。でもよく考えてみよう。国民皆保険制度の日本でなぜ民間保険会社が医療保険を販売しているのだろう。
現在の日本ではすべての国民が健康保険に加入して、平等な医療を受けることができる。しかし、いったん病気になると医療行為そのもの以外にも多くの支出を余儀なくされる。入院時の差額ベッド代、通院時のタクシー代などなどである。これまでは、こういった医療周辺の支出には生命保険の疾病特約などが対応していた。この部分だけに特化した保険がいわゆる医療保険である。この分野は日米の取り決めで2001年まで外資系保険会社が独占してきた。
TPPが実現するとどうなるか。ここから先は私の想像だが、医療保険の守備範囲が徐々に拡大してやがては公的な健康保険にとって代わると考える。
まずは混合診療が公認される。はじめのうちは先進的医療行為を健康保険でまかなうと保険財政がパンクするというキャンペーンがはられて先進的医療行為は健康保険では受けることができなくなる。そしてその医療費を保証するべく医療保険の市場が拡大する。やがて間違いなく、発生頻度の低い疾患を健康保険対象から除外される。なぜならば、市場拡大を狙う保険会社と、国の医療にかかわる支出を削減したい国の利害とが一致するからである。最後には感冒や単純な高血圧といった疾患だけが健康保険の対象疾患として残されるだけになって、少し手のかかる病気はすべて自費になる。当然自費では払えないから民間の医療保険に入っておかないと医療を受けられないという図式が完成する。
私はこれだけでは終わらないように思う。今でも国は医療費の支払いを「出来高払い制」から「まるめ方式」に変えたくてしょうがない。「まるめ方式」とは個々の病状とは関係なく、診断名で治療費を決めてしまうやり方だ。このやり方は感冒ならば○○円、高血圧ならば一ヶ月に△△円と一律に価格が決定される。すぐに治ってしまう感冒でも、重症で長引いた場合にでも、そんなことはお構いなしに○○円が医療機関に支払われる。高血圧も同じである、薬の質、量、検査の有無とは無関係に1月の診療費が決定されて支払われる。
過剰な処方や検査を防ぐためにはよいかもしれないが、一層、経済的観点だけから医療が行われるようになる。医療機関は赤字になるわけにはいかないので、効果がどうであろうと安い薬しか使わなくなるし、必要な検査も控えられることとなる。なにせ、何もしない方が儲かって、医療行為をすればするほど赤字になってしまう仕組みだからだ。こうして、これまで世界でトップレベルの医療を受けられていた日本国民も健康保険だけでは、アメリカ人と同じように本当に最低限の医療しか受けられなくなる。
ここにまた民間保険の金儲けの場ができる。日常的な病気に対しても、少しでもましな医療を受けたい裕福な人はさらに民間医療保険を上乗せすることになる。こうして日本の国民皆保険制度は完全に崩壊する。
それでは公的保険にとってかわった民間保険が私たちの健康を守ってくれるのだろうか。甚だ疑わしい。保険会社は支払いの段になるとなんやかんやといちゃもんをつけて踏み倒そうとするにきまっている。私の推測を裏付けるように、もうすでに我が国の医療保険において保険金の不当不払いが問題化している。

TPP推進論者たちは、ともかく参加して個別の問題に対しては毅然と日本の国益を守ればよいと、口先のきれい事を言う。しかし、圧倒的な軍事的プレゼンスを持ったアメリカに、これまで我が国が毅然とした態度をとってこれただろうか。ましてや、TPPとなれば、二国間交渉ではない。日本とは利益が共通でないアジア、オセアニアの票を集めたアメリカの一方的な寄りきりになることは火を見るよりも明らかである。
何よりも今回の決定を許せない理由は、国家の存亡にかかわる重大事項を、国民の理解どころか、なんら説明もなされぬままにアメリカへの追従行為として決定したことである。
野田は歴史に残す総理となるかもしれない。わが国をアメリカの植民地として捧げた男として。

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