投稿日:2011年10月24日|カテゴリ:コラム

現代社会において人の営む行為は必ず何らかのルールのもとに行われる。これを明確に示しているのが罪刑法定主義である。あらかじめ犯罪として規定し、それに対する刑罰を明確に規定してある行為以外の行為を後から処罰することは許されない。このことは日本国憲法第31条と第39条に規定されている。
堅苦しい刑法に限らず、もっと身近なスポーツでも、あらかじめいろいろな状況を想定してルールが決められている。そしてそのルールに則って正々堂々と勝負が行われる。試合途中でルールの不備が見つかったとしてもその試合はそのルールの下で最後まで戦わなくてはならない。ルールの改正はその後のことである。
10ラウンドと決められていたボクシングの試合で、決着がつきそうにもないからといって急に12ラウンドにされてはたまったものではない。1000m走競技なのに最後の一周まで差がつかないからといってゴールを100m伸ばされたら、1000mを目標に死に物狂いで走ってきたランナーの中には新しいゴールへ辿り着けない者も出てくるだろう。
当たり前のことだが、実際のスポーツ大会でそんな馬鹿げた風景は見たことがない。ところがスポーツの世界でさえない試合途中のルール変更が、こともあろうに、私たちの人生を左右する重大な事柄で行われようとしている。しかも国家の手によって。

このところ厚労省が、年金の支給年齢の引き上げに関する3つの案を発表した。いずれの案をとったとしてもゆくゆくは68歳までは年金を支給しない腹が固まったらしい。これまで歴代関係者が湯水のごとく使い果たして、すでに破綻している制度であるから、どれほどの反発があろうがいずれ現実化することは間違いがない。無い袖は振れぬというわけだ。
65歳のゴールを目指してひたすら走ってきて酸欠ならぬ金欠状態の国民に対して、「残念でした。ゴールは68歳に延長します。」と言っている。こんな理不尽なことが罷り通ってよいのだろうか。しかもそう遠からぬうちに68歳が70歳に引き上げられるのは想像に難くない。
案の定、私の周囲の若者はこの動きを知って「絶対に年金は払わない」、「私たちがもらえるはずがないから」と述べる者がさらに増えた。若者の年金離れが急加速すればいくら支給年齢を上げても制度崩壊の動きに一層の拍車がかかるだけである。

「将来必ず倍になって戻ります」、「損することはありませんから」とまことしやかな投資話で出資を募って、運用などせずに使い放題。出資者から「約束の配当が入金されない」と抗議があると、新たな出資者からの金の一部を利払いに回す。しかし、そんな自転車操業がいつまでも続くはずがない。早晩ほころびが見えてくる。司直の手が及ぶ前に雲隠れ。
こういった詐欺商法はいつの世も後を絶たない。だまし取られた金は戻ってこないが、その首謀者の多くはお縄となって処罰される。
国が行ってきた年金事業はよく考えると、こういった詐欺商法と何ら変わりがない。ただよくある詐欺事件と違っている点は、立案・実行者が政治家と国家公務員であり、そのスケールが壮大であるというだけだ。ところがその被害がどんなに甚大であっても、国家公務員による犯罪は当事者が処罰されることはない。役人は裁かれざる者なのだ。
国の誤った行政による被害は国家賠償訴訟によって損害賠償されることがある。冤罪被害者の賠償請求、ハンセン病患者人権侵害問題やB型肝炎問題などがそれである。しかし国家賠償訴訟のハードルは非常に高く、そのほとんどが敗訴になる。たとえ、勝訴して国の誤りを認めさせたとしても賠償金を得られるだけである。そしてその賠償金の出所はわれわれ国民の血税であることを忘れてはいけない。誤った政策で多くの人々の生命、財産を脅かした当事者たちの責任は問われない。彼らの自由も財産も保全されるのだ。
行政の仕事は国家という組織が行ったものであって、特定の個人にその責を求めることはできないという理由であろう。さらに、正当な業務として行われた行為を罰しないという法的な原則に基づくものと思われる。確かに、国のため、国民のために良かれと思って行った政策が、結果として失敗であった際に、いちいちその過失責任を問われたならば、役人は委縮してしまい、仕事ができなくなってしまう。しかし、過去に問題となった国の事業はすべてが善意の職務の過失だけであっただろうか。そうは思えない。あらかじめ、誤りが予想されているにもかかわらず、担当者およびそれを取り巻く一部の者たちの利益を主目的に強行した犯罪的政策もなかったとは言えまい。少なくとも、年金行政は立派な詐欺行為だと考える。
年金制度発足当初は就労人口が右肩上がりに増加していたが、やがて人口増加が止まり減少に転じることはよほどの知恵遅れでない限り分かっていたはずだ。であるならば、国民からお預かりしたお金は安全に運用しなければならないことも分かっていたはずである。にもかかわらず、彼らは国民から巻きあげた金は俺たちの金とばかりに、自分たちの利益のために使ってしまうことを選択した。どんなに使っても当分の間、少なくとも自分が現役である期間内は、収入が増加し続けるので支払いに窮することがない。だから悪事が発覚するのは自分が退官してずっと後のことであると踏んだのだ。
「将来、支払い不能に陥るかもしれない、おそらく陥るだろう、しかしそうなってもかまわない」。これは未必の故意である。十分に犯意があったと言える。百歩譲っても善意に基づく職務行為とは言わせない。
歴代親分の犯罪を糊塗するために跡目を継いだ官僚やくざがとろうとしているのが、試合途中ルール変更という荒業である。非を認めて損害賠償どころか、この上まだ「百年安心」などと言って、さらに国民からむしり取ろうと画策している。何をかいわんやである。

いい加減で利己的な行政を改めさせるためには、悪質な失政があった際には歴代の責任者を処罰するしかない。僅か1,2年の現職期間が過ぎれば時効で免責されるという風潮を改めて、過去に遡って責任者の罪を糾弾し、その私的財産を没収すべきだと考える。
権限と責任は表裏一体のはずである。ところが現在の行政機構は、権限だけは振り回して責任は取らなくてよいシステムになっている。さんざん悪さをしておいて、咎められると「僕がやろうっていったんじゃないもん」、「先生(政治家)がやれやれって言うからみんなでやったんだもん」、「それにもう僕そのグループにいないから分かんない」と言い逃れする甘えたガキと一緒である。任期中にばれなければどんなことをしても許されるという甘えから目覚まさせれば、そう無責任な仕事をできなくなると思う。

国家行政に携わる者がいつまでも裁かれざる者であってはならない。もしこの状況がいつまでも続くならば国家への信頼は完全に消失する。国民に信頼されない国家が成り立つはずがない。また一方では別な形で裁こうとする動きが出てくることも懸念される。
皆さんは2008年11月に起こった殺人事件をもうお忘れだろうか。小泉毅という無職の中年男が厚労省元事務次官夫妻、元事務次官夫人を殺害した事件だ。
彼が荒唐無稽な動機として述べている愛犬の名前、「チロ」が私には「テロ」という不穏な言葉に聞こえてならない。2人目、3人目の小泉が出てこないためにも、公務員個人に対して相応の責任を問うことができる制度に変革するべきだと考える。

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