投稿日:2011年10月17日|カテゴリ:コラム

先日、仙台地裁で大津波で我が子を失った4家の遺族が幼稚園に対して2億7000万円近くの損害賠償を求める民事訴訟の第1回公判が開かれた。東日本大震災直後、園児を保護者に引き渡すべくバスで移動中に、予想だにしなかった大津波に襲われて5名の園児が亡くなった。
大変不幸な事件ではあるが、停電でテレビがつかず、防災無線も不通状態の中での幼稚園の懸命の対応を、重大な過失として責め立てるのはいかがなものか。私は、行動の出発点である善意の動機を顧みず、ただ結果だけから非難するこういった風潮には大野病院産婦人科医逮捕事件の時と同じように、後味の悪い不愉快さを覚える。
しかし、一つの出来事をどう評価するのかは人それぞれである。人生観、価値観が異なるからだ。たとえば、1万円を手にした時、「1万円も手に入った」と喜ぶ人もいれば、「たった1万円しか得られなかった」とぼやく人もいる。金銭感覚はその人の経済状況で容易に変動するから同じ金額に対するありがたさが違うことは容易に理解できる。
しかし、もっと基本的な感覚であっても主観的な体験には個人差がある。たとえば美的感覚。好みの異性の外観は人によって全く違う。好きなメロディやリズムも千差万別。料理の味付けの好みも多様である。
こういった好みの多様性は過去の経験の違いが大きく関与するものと思われる。さらに、もっと基本的な生物学的な知覚レベルにおいても人の体験は多様と言える。林檎を例にとってみよう。リンゴは赤いと言うが現実のリンゴは真っ赤ではない。まっかな部分もあれば一部黄緑がかった部分もあるのが現実のリンゴである。
このリンゴを見た時、多くの人は大部分を占める赤に注目して「このリンゴは赤い」と認識する。しかし中には端の方の黄緑の部分を注目して「下の方が黄緑のりんご」と認識する人もいる。色覚そのものに大きな差がなくても、網膜に映った同一画像をどのように認識処理するかという点で個人差が出てくる。こうなると一つの林檎を見るという単純な出来事でも内面的な体験は大きく異なってくるのだ。
そもそも、赤いと言っても私たちは皆同じ「赤」を見ているのだろうか。一つの林檎を貴方と私が見た時に、同じリンゴの赤を私の脳が感じているのとまったく同一に貴方の脳が感じるという保証はない。実は私が体験する「赤」と貴方の「赤」の体験は全く違っているのかもしれない。
しかし、幼小児期からいわゆる赤いものを見せられる度に「これは赤だ」と繰り返し教え込まれる。だからもしかすると、お互いの脳の体験は全く異なっていても、その体験を共通の「赤」という概念で表現しているのかもしれない。たとえ主観的な体験が異なっていても、「赤」という共通の言語で表現する限り、社会生活上何ら齟齬は生じない。私たちが言語でしかコミュニケーションをとることができない以上、それぞれの体験が厳密に同一かそうでないかを証明することは不可能なのだ。

根本的に、私たちは同一の事象に接したとしても同一の体験をすることはあり得ない。言い換えれば、私たちの体験は皆それぞれ違っているのが自然であると言える。そこへ持ってきて生まれ、育ち、教育環境、経済環境も異なっているのであるから、十人十色どころか百人百様で当たり前である。自分の感覚尺度を振りかざして安易に「これって常識だろう」と言わない方がよい。
俺がこう感じているのだから、相手だって同じように感じているはずだという思い込みがしばしば争いの発端になる。人の体験は皆違うという観点から出発した方が、むしろより多くの人と協調することができるように思うのだが。

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