オリンピック種目が次々と増えていく。次のオリンピックでゴルフも競技種目になると聞くが、私はゴルフがオリンピックにふさわしい競技だとは思えない。あまりにも人為的な競技だからだ。同じ理由でフィギアスケートもオリンピックではなく、ショーとして行うほうがよいのではないかと思う。
観戦者の立場から言うと、スポーツは単純に速さ、強さを競うものの方がより興奮する。たった10秒未満で終わってしまうウサイン・ボルトの走りに世界中が熱狂する理由もそこにあるのではないだろうか。
すばやく自由に移動したい。この欲求は人間の動物としての本能に基づいていると思われる。だから獲物を追って疾走するチータの映像に背筋が寒くなるような畏敬の念をおぼえるのだ。
しかし、人間は自力では100メーターを3秒ちょっとで走るチータには到底及ばない。ボルトでさえ、せいぜいラクダやゾウ程度のスピードしか出せない。ウサギや猫にさえ負けてしまうのだ。
それでも、より早く移動することを求める人間は、その目的のために自己以外の力を利用することを考えだした。その手段としては長らく馬やラクダといった家畜が主役であった。大きな変化が起きたのは産業革命である。馬やラクダに変わって蒸気機関を利用した乗り物(1769年フランス人ニコラ=ジョゼフ・キュニョーによるキュニョー砲車)が登場した。
ガソリンで走る自動車は1870年オーストリア人、ジークフリート・マルクス
が1870年に開発した。その後。ドイツ人のダイムラーやベンツによって本格的なガソリンエンジン自動車や2輪車が生産されてモータリゼーションの幕が切って落とされた。
動力機関に頼らず、自分自身のエネルギーを使って移動する自転車はさぞかし古い歴史を持つのだろうと思っていたが、意外とその歴史は浅い。2輪自転車の祖先とされるドライジーネは1817年にドイツ人、カール・フォン・ドライスによって発明されたが、これは二つの車輪を持つというだけで、駆動装置はなく、移動は足で地面と蹴って走るものであった。スケートボードに車輪をつけたようなものであった。
ペダルを回転させて走る本格的な自転車は1861年のフランス人、ピエール・ミショーによるミショー型自転車の登場を待たなければならない。自動車に比べて簡単な機構にもかかわらず、自転車の開発が遅い理由はスピードが馬に及ばないことにあったのではなかろうか。だからその後も自転車は、先進国では一部のファンにスポーツとして愛される以外は、女子供の移動手段といった感が強かった。
自転車は給油も充電も必要としない。エコロジーの観点からみるともっとも優れた乗り物と言える。近年ようやく私たちも地球の資源に限りがある現実を理解し始めた。それに呼応して世界中で自転車の価値が見直されてきた。さらに我が国におけるこの流れを東日本大震災が一気に加速させた。
あの日首都圏ではあらゆる公共交通機関がとまり、道路には車が溢れだし壮大な駐車場と化した。1時間移動するのに数時間を要するありさまだった。いわゆる帰宅難民問題。さらに、地震と津波によって多くの石油関連施設が破壊されたために、その後数週間にわたって石油が入手困難になった。このために東京を中心として自転車通勤の一大ブームが起こり、町を疾走する自転車が倍増した。
環境汚染の問題にとっても省資源門にとっても好ましい現象なのだが、一方では由々しき事態も進行している。自転車による交通事故の急増だ。これは自転車数の増加に伴う必然的な増加だけでは説明できない。自転車を運転する人の交通マナーの欠落と、それに対する行政の対応の不備が自転車による重大事故を誘発していると考える。
車で東京の街を一走りしてみよう。目に余る自転車の無法運転を何十件も目にするだろう。信号無視、交差点の斜め横断、車道の右側通行、歩道の爆走、歩道の複数台並走、携帯をかけながらの運転、傘をさしながらの運転、飲酒千鳥足運転などなど枚挙にいとまがない。
私が目撃した事故。それは霞が関へバイクで通勤途中の白山通りの出来事である。路上駐車の車をすり抜けるように車道の右側を猛スピードで突っ走る自転車を目にした。その直後、歩道寄りを走って駐車中の車のわきを過ぎようとしたタクシーが、駐車中の車の陰から突然飛び出してきた件の自転車と正面衝突してしまった。私は先を急ぐのでその後の成り行きは分からないが、自転車の運転手が命にかかわる重傷を負ったであろうことは疑う余地がない。
私はその瞬間、自転車の主の安否よりもタクシー運転手の不運と、彼のその後について心配した。なぜならば、我が国ではどれだけ自転車の方に過失があっても、事故となった以上、自動車の側が過大な責任を問われるからだ。
以前私の知人がT字路の優先道路を法定速度内で車走らせている時、横から自転車に激突された。出てきた自転車をはねたのではない。交差点を通行中に横から自転車にぶつけられたのだ。明らかに自転車に非がある。にもかかわらず知人は注意義務違反を問われた。
日本の道交法は、規則そのものはすべての人に平等であっても、運用の段階で判官びいきが日常化している。すなわち歩行者より自転車、自転車より自動車に重い責任を負わせるのが現実なのだ。
ドイツでは、歩行者が自動車にはねられて死亡したとしても、はねられた場所が歩行者の横断が許された場所でなかった場合、自動車運転手に罰が下されることがないばかりか、逆に遺族が運転手から精神的損害賠償を請求されることがあるそうだ。さすが厳正な法治国家として知られるドイツならではと言える。あまりにも杓子定規な法の適用は息が詰まるが、弱者優遇が過ぎれば法治国家の信を問われることになる。
そもそも自転車が弱者と言えるか。補助輪の付いた小児用自転車や高齢者用自転車ならばいざ知らず、時速30km近くで疾走する金属の塊を一方的に弱者とは呼べない。ましてや、今流行っている競技用自転車などは時速60km近い性能を持っており、十分に凶器と言える。
ヘルメットで自身の安全は確保して、こういった凶暴な自転車で車道、歩道関係なく、自動車の間を縫うように、さらには信号も無視して走り回る連中は凶器を持ったならず者である。保護すべき弱者ではない。ママチャリも決してかよわき弱者だけではなく、立派な犯罪者予備軍がいる。
前後に幼児を乗せて平然と信号無視して交差点を斜め横断する馬鹿女。自分だけで死んでくれれば良いが。巻き添えをくわされる子供から見れば立派な殺人未遂と言える。さらに、こういう親に育てられた子供が法規範に対する意識が希薄になるのは当然である。極めて罪深い行為だと思う。
自転車の無謀運転の根元は何か。それは自分さえよければよいという、利己的欲望ではなかろうか。そう考えれば環境破壊、資源枯渇問題と同根と言える。人が利己的な欲望に歯止めをかけない限り、いくら自転車に乗ってみたところで、未来は明るくならない。
利己的で他者を思いやる気持ちを持てない自転車族が増え続けるならば、取り締まりを徹底的にやっていただくしかない。ところが、自転車の暴走が後と絶たない一つの原因に、自転車運転が免許制でないことがこの取締りを困難にしている。免許がいらないことが自転車が車両であるという認識を持ちにくくして、さらには違法行為を見つかっても叱られるだけで痛くも痒くもないからだ。
私は本来は性善説に基づきたいのだが、さすがに今の自転車の横暴ぶりを看過することはできない。自転車運転も免許制にし、違反を見つけたら罰金と免許没収を課し、一定期間運転を禁ずるといった措置を取らざるを得ないところまで来ているように考える。ならず者を野放しにしておいてはいけない。