投稿日:2011年9月25日|カテゴリ:コラム

「お箸を持つ手が右手、お茶碗を持つ手は左手。」小さい頃、親からこうして左右の区別を教わった。その後の生活の中で常に左右の識別を要求され、訓練されてきた。したがって、右と左の識別は私たちにとって簡単な作業と感じている。だから、何も分からない状態を「右も左も分からない状態」といった表現で表わすくらい当たり前のこととされている。ところが、実際には右と左の認識はそれほど簡単ではないのだ。
大脳優位半球の頭頂葉と側頭葉の境界近くの角回と縁上回という部分が障害された時にみられるゲルストマン症候群(Gerstmann syndrome)では失書(自発的に字を書くことや書き取りができない)、失算(暗算も筆算もできない)、手指失認(自分の指の識別ができない)の他に左右失認(左右の識別ができない)が認められる。
昔、まだカーナビなどない時代、助手席に乗せた後輩I君が右手で右方向を指し示しながら「先生、そこを左」、逆に、左手で左を示しながら「次の角を右」と指示する道案内に大変混乱した想い出がある。
I君は人差し指と小指の識別はできるし読み書きそろばんも優秀である。今では大学で教授を務めているからゲルストマン症候群ではない。つまり、病気ではなくとも左右識別が苦手な人がいることが分かる。

そもそも、右と左という概念自体相当高度な抽象的概念である。3次元のうちまず、上下と前後が決まらないと左右の定義はできない。なぜならば上下は重力の方向、前後は自己の進行方向という明確な物理指標と直結しているのに対して、左右にはこのような明瞭な価値の違いが存在しないために一義的に決定できないし、混乱しやすい。
人の場合には身体がほぼ左右対称だが心臓の位置や利き手など僅かな違いがある。そのためにそういった特徴を利用して左右を確認することが多いが、そういった条件を利用できず、上下と進行方向がはっきりしない宇宙空間のような環境では左右を決めることはかなり難しい。
私たちは身体が完全に対称でないから左右を容易に識別できるのだが、一方、私たちの身体の不完全な対称性によって混乱することもある。もっとも身近な混乱が鏡像の問題である。「鏡に映る像はなぜ上下は正しいのに左右は逆になるのか?」
このなぞなぞに近い疑問は、分かったようなつもりになっている極めて日常的な事象が、実はよく分かっていないことを示す格好の教材であろう。すぐに正解に至る人は滅多にいない。しばしば行き着く答えが「目が左右に並んでいるから」だ。しかし、片目で見ても鏡に映る像は同じだから正解ではない。
実はこの問題は、問いかけ自体がトリックなのだ。鏡の前に立って自分の鏡像を見ながら前に進み、鏡に身を寄せてみよう。頭は頭、右手は右手、実際の身体と鏡に映る己の身体とはぴったりと一致する。つまり鏡像で上下方向と左右方向とには何ら差異はないのである。実際には鏡はどちらの方向にも平等に像を映していて、左右だけ逆といった不思議なことは起きていないのだ。
左右が逆になっているかのような疑問が起きるのは、先ほど述べた私たちの身体の不完全な対称性にある。上下は重力を感じることと、頭と足の形態が明らかに違うために錯覚しようがないのに対して、左右はおおむね対称であるために自分の姿を、その位置に同じ向きに立った自分自身に重ね合わせようとする。
完全に左右対称であるならば自分の身体と鏡像とは完全に重なるので「左右が逆」といった違和感が生じない。ところが実際には対称でないために左手と右手が正確に重ならない。そこで左右が逆になったかのように錯覚するのだ。

左右の非対称性は人間の身体に限らず、自然界に広く見られる。もっとも身近な例は両眼が顔の片側に偏在しているヒラメやカレイであろう。「左ヒラメに右カレイ」と言われるが、なぜヒラメが左を選び、カレイは右なのかは不明である。巻貝の殻の巻き方は種類によって異なる。カタツムリは右巻きだがキセルガイは左巻き。
電流と磁場と力の関係を表すフレミングの法則で分かるようにこういった物理指標の向きも左右決まっている。科学物質の立体構造を見る場合に左旋性の物(L型)と右旋性の物(D型)が存在する。ところが私たち生物にとって大事なアミノ酸はどういうわけかL型しか利用できない。
台風、ハリケーン、サイクロンといった熱帯低気圧の渦の巻き方は北半球で発生したものは左巻き(反時計回り)、南半球で発生したものは右回り(時計回り)だ。この左右の決定は地球の自転で生じるコリオリの力による。

「左、右」。このごく当たり前と思っている現象も実は奥深い。実は世の中には当たり前の現象はそう多くない。不思議なことばかりなのである。それなのに疑問を感じず、当たり前と感じるのは、その物事を深く考えようとしないからである。
今の世は、ニュース解説員のように、博識で何にでも簡単に答えを出す人が尊敬されて、本人も自分のことを頭がよいと勘違いしているきらいがある。しかし、物識りでなんでも当たり前と感じる人は、実は思考能力が低い人なのかもしれない。

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