投稿日:2011年8月14日|カテゴリ:コラム

ラジオで気象庁の方から次のような話を聞いたことがある。「初夏や晩秋になるとよく『もう寒い日はないか』とか『もう夏服は片付けてもいいでしょうか』といったお問い合わせがあります。こういった時には『まだ寒い日はあるでしょう。』『まだ衣替えはお待ちになった方がいいです。』と答えるのが最良です。」「科学的な根拠はないが、下手に科学的なデータに基づいた予測よりも苦情の件数が驚くほど少ないのです。」
なぜ、莫大な研究費をかけた科学的予測よりも、その場しのぎのいい加減な返事の方がよい成果を得られるのだろうか。その種明かしはこういうことである。つまり、この手の問い合わせがあるうちは、必ずまだ時たま寒い日や暑い日がある。季節が安定すると問い合わせ自体がなくなる。だから、問い合わせに対しては「まだまだ」と答えておけば大方外れないということになる。
こういうやり方はペテンだと怒る方がいるかもしれないが、決してペテンではない。なぜならば、気象学に限らず科学とはすべて過去のデータを基に作られた仮説である。したがって過去の出来事を合理的に説明することはできても未来を正確に予測することはできないからだ。

巨大地震とそれに伴う大津波が東北、関東の大平洋沿岸地域に広範囲に深刻な被害をもたらした今回の東日本大震災。この震災にまつわる記述には必ず「1000年に一度の」とか「未曾有の」といったことばを目にする。
麻生さんがリーマンショックに「未曾有の出来事」と使ってから(読み方は間違ったが)、いろいろな場面で安易に「未曾有の」の冠が貼られるようになった。が、今回の震災は本物中の本物の「未曾有の出来事」である。
世界の津波対策の模範とされていた田老町の高さ10mの防潮堤も破壊され、長らく安全のシンボルであった陸前高田の7万本の松も1本を残して根こそぎ引き倒された。さらにこの巨大地震と大津波が前代未聞の原子炉事故を引き起こした。福島原発事故は数万の人から故郷を奪い、未だに放射性物質を漏出し続けている。政府の大本営発表とは裏腹に安定終結の目途は立っていない。いずれをとっても想定を超える規模の超大災害である。

当初はただ悲しみに打ちひしがれていた被災民だが、5ヶ月を過ぎて自らが失ったものの大きさをあらためて認識し、そのやるせない怒りの矛先を探し始めた。A級戦犯として東京電力と政府がきびしく糾弾されるのは至極当然と言える。原因が天災にあったとはいえ、その後の対応に重大な瑕疵があったことは否めない。まずは歴代経営陣、株主、債権者が私財を投げ打ってでもできる限りの保証をするべきである。次に原子力行政関係者、権力におもねって地位と財産を築いた御用学者もその責を負うべきと考える。
実際、各地で損害賠償を求める動きが活発化している。しかし、先日報道された損害賠償請求には違和感を覚えた。それは、送迎バスが津波に巻き込まれ、園児5名が亡くなった事件に対する民事訴訟請求だ。一部の遺族が送迎バスによる送り届けによって愛児が死亡したとして幼稚園に対して2億を超える賠償を求めるものだ。
結果として幼稚園よりも低い道路を走ったために津波に巻き込まれたのは間違いない。しかし、園児を殺そうとしてバスに乗せたわけではない。一刻も早く、心配している家族のもとに園児を送り届けようとしたが、予想を超える津波によって不幸な結果となったわけである。津波に対する判断を誤ったことを過失と責められるならば、善意の行動を躊躇せざるを得なくなる。数年前の福島県立大野病院産婦人科医逮捕事件に通ずる不快を感じてしまった。

大津波をどこまで予見できたかは議論が尽きないが、どんな方法をとったとしても予想はあくまで予想。100%的中するわけがない。そもそも過去は事実として記憶されるが、未来は全くの白紙だ。それが時間という次元の不可思議かつ理不尽な性質と言える。しかし、人間は不確定な未来を受け入れることができない。何らかの確約を求めて止まない。
言い換えれば、人間の最大かつ永遠の欲求は未来を予測することにある。宗教も科学もここから出発したが、人間は未だにこの要求を満足させる手段を持たない。
現在国民の最大の関心事は原発から漏出した放射性物質による長期被曝の健康被害であろう。多くの国民が許容量線量を求めている。これも、未来予測の要求と言える。関係機関はその欲求を満足させるべく右往左往しているが、明確な値を算出できるわけがない。
前回のコラムで述べたとおり、人類は低線量被曝の人体への長期影響は十分な知見を持っていない。また、放射能の細胞毒性には閾値が存在しない。どれほど浴びれば致死的な影響が出るかについては予測できたとしても、ここまでなら安全ということは言えないのだ。できる限り被曝しない方がよいと言うのが正直な答えなのだ。
それでも、人は何らかの拠り所を求めて値を示せという。言い換えれば、人間はどうしても将来に確約を求めたがるのだ。この先は不確定であるという現実をあるがままに受け入れることが恐いのである。この不安を解消するためにある者は神を信じ、またある者は科学に救いを求める。
繰り返してのべるが、科学は過去の出来事を合理的に説明することはできても未来を正確に予測することはできない。深く科学に携わった者はこの科学の限界を知っている。しかし、一知半解の自称インテリは、宗教を非科学的と軽蔑するが、実は自分自身が科学教信者であることに気付かない。本当は不確かことでも、数字になってさえいれば信用する。逆に、数字に表せない事実からは目をそむける。数字にすがり、数字に踊らされるのだ。そして、最近はこの科学原理主義が蔓延しているように感ずる。
科学を未来透視の目的で使う愚かな科学教原理主義に陥ることには十分に気をつけたいものだ。

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