投稿日:2011年8月8日|カテゴリ:コラム

1945年8月6日午前8時15分、広島市上空1万メートルを高高度飛行してきたB29、エノラ・ゲイ号から巨大爆弾一発が放たれた。これが人類史上初めて実用された核爆弾リトルボーイ投下の瞬間である。
43秒後、上空約600メートルで炸裂した悪魔の申し子が広島市を阿鼻叫喚の巷と化した。14万の命を奪った未曽有の惨劇はたった1発の爆弾によるものである。しかも計算によると50キログラム搭載されていたウラン235のうち実際に核分裂反応を起こしたのは1キログラムに過ぎない。
1キログラムの核分裂反応が放出したエネルギーは60兆ジュール。TNT火薬換算で15,000トンに相当する。B29の最大積載量が5トンだったからB29、3000機による空襲に匹敵した。東京大空襲はB29、344機で行われたから、東京大空襲9回分のエネルギーが人口10分の1の都市に一気に放出されたことになる。しかも通常爆弾と違って爆発後も長期間残留放射能によって救援活動に入った人、胎児にも致死的な被害を与え続けた。
米国では原爆投下が終戦を早めて戦死者増加を食い止めたという詭弁を弄する者が多いが、この暴挙が彼らから見た劣等民族を材料にした、壮大な科学実験であったことに疑う余地がない。なぜならば3日後、長崎に投下された核爆弾は、リトルボーイとは核子の異なるプルトニウム型のファットマンであったからだ。
人を材料にした核爆弾投下実験の第2弾「ナガサキ」は広島惨劇の僅か三日後に挙行された。午前11時2分、長崎中心部から3キロメートル外れた市街地の上空約500メートルで爆発した「ファットマン」7万4千人の命を奪い町の三割以上を破壊した。
ところでこの長崎が小倉の身代わりであったことはあまり知られていない。B29「ボックスカー」は投下目標である小倉陸軍造兵廠の確認に失敗。その後2度にわたって爆撃を試みるも成功せず燃料が少なくなり、小倉を離脱し第2目標であった長崎へ向かった。すでに予備燃料で飛行していたボックスカーは、もし一度の爆撃航程で長崎への投下を果たせない場合には、爆撃を断念して爆弾を太平洋上に投棄しなければならなかった。
当時長崎は雲に覆われていて帰還やむなしと思われた矢先、本来の目標地点より北側に一瞬雲の切れ間から長崎市街が顔を覗かせた。悪魔の導きと言うよりほかない。
ファットマンはプルトニウム型核爆弾でその破壊力はTNT火薬換算で2万2千トン。リトルボーイの1.5倍の威力だ。自然界に存在しないプルトニウム元素を用いた核爆弾の開発計画の成果を試す残酷非道な科学実験であった。プルトニウムは放射能によって人を傷害するにとどまらず、化学的にも発癌性を持っている。プルトニウム爆弾が汚い爆弾と呼ばれる所以だ。
広島、長崎で行われた世紀の人体実験は実験者にとって予想以上の成果をもたらした。その圧倒的な破壊力を見た戦勝国はこぞって核開発に血道をあげることになる。その結果、冷戦末期に米ソ合わせて、地球上の人類を何十回も絶滅することができるほどの核弾頭を保有するに至った。晩年、アインシュタインはこう言った。「第三次世界大戦はどう戦われるでしょうか。わたしにはわかりません。しかし、第四次大戦ならわかります。石と棒を使って戦われることでしょう。」

世界で唯一の被爆国である日本が原子力発電に依存していったのには多くの理由がある。一つは我が国が原油や天然ガスなどの化石燃料資源を持っていないこと。第二には国防上の理由から非核三原則を謳いながら、いつでも核武装できるだけの核物質と技術を保有すること。第三には自国の原子炉製造メーカーの売り上げを伸ばす目的でアメリカ政府からの圧力があった。などなどである。
いずれにせよ、原子力爆弾で多くの国民の命を奪われた我が国が、爆弾を投下した張本人の利益のために原子炉を増やし続けた。そして、たとえそのきっかけが天災であったとしても、その原子炉によって再び多くの国民の命が危険にさらされているという事実は笑えないブラックユーモアではなかろうか。
今取りざたされている放射線障害についての基礎データは広島、長崎の原爆とチェルノブイリ原発事故で得られたものが大半である。原爆の急激な大量被曝による健康被害は広島、長崎で多くのことが分かっている。しかし、これから福島で起こる長期間にわたる低線量被曝が人体にいかなる弊害を生むのかについては、誰も正確な予測を立てられない。むしろ多くの国が今後の日本人の健康状態がどのような変化をきたすのか興味深く見つめているというのが現実なのだ。
つまり、日本は望まずして、爆弾による大量被曝、原子炉事故による低線量長期間被曝、両方の実験台となった。原子力に翻弄され続ける国と言えよう。

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