投稿日:2011年6月20日|カテゴリ:コラム

ある朝、目を覚ますと自分が巨大な虫に変わっていた。これはカフカの有名な小説、「変身」の書き出しです。シュールな話の代表とされています。人間が虫に変わってしまうなんてありえないという常識が前提になっています。

確かに、古今東西、人が虫になった事例は聞いたことがありません。犬が猫になることも、猿が牛になることもありません。人は生まれてから死ぬまで人であり続けます。しかも、3歳頃に「自分は自分である」という意識を持ってからは自分は自分であり続けます。自分が徐々に成長してやがて衰えて死ぬという一連の体験をします。

どんなに風貌が変化しても違う人間になったとは感じません。自分の外見が変化したと自覚します。当たり前のことだと思われるかもしれませんが、昨日の自分と今日の自分が同一であると認識できる能力は実はとてもすごい能力なのではないでしょうか。

 

生物は新陳代謝を行って、常に細胞が入れ替わっています。つまり古くなった細胞が死んで新しい細胞と入れ替わっています。ヒトの身体は約60兆個の細胞から構成されています。天文学的な数の細胞と思われるでしょうが、1秒間に500万、1日では約5000億個の細胞が死を迎えて、それと同じ数の細胞が新しく生まれているのです。単純に計算すると120日経つとすべての細胞が入れ替わることになります。つまり120日前の私と現在の私とはそっくりですが全く別物と言えます。

細胞レベルでは別人と言えるのに、4か月前の自分の体験は今現在ある私の過去の体験として実感できます。自己を認識する機能が継続性を持っているからです。この自己同一性の保持はなぜ可能なのでしょうか。

一番大きな理由は脳の特殊性にあると考えます。先ほど1日に5000億個の細胞が入れ替わると言いましたが、これは随分乱暴な計算による数字です。実際には入れ替わりの速度は細胞の種類によって雲泥の差があるのです。

消化器系の粘膜細胞は新陳代謝がとても速く、5日周期で入れ替わります。心臓の筋肉が22日周期、皮膚細胞が30日、骨格筋や肝臓の細胞が60日周期、骨細胞が90日周期、赤血球が120日周期で細胞を交代します。

ところが、脳細胞はいったん出来上がると原則として入れ替わることがありません。脳細胞は3歳までに70%、6歳までに90%、10歳までにほぼ140億個の細胞が出来上がります。その後は細胞の入れ替わりや補充はなく、減る一方です[i]
その減り方は驚くほどで、1日平均10万個減ると言われています。さらに私のような喫煙者は、喫煙時に吸い込む一酸化炭素によって、煙草一本当たり200個の脳細胞が死滅するという人もいます。40年を超える喫煙歴の私の脳はもう相当にスカスカになってしまっているでしょう。

このように、いろいろな原因で細胞が死滅した際、皮膚などの細胞は再生して損傷個所を補いますが、脳の場合には死んでしまった細胞は補充されません。破壊に対してやり直しがききません。非常に特殊な臓器なのです。ところがそこはよくしたもので、脳は再生できないというこの致命的と思われる、弱点を膨大な数をあらかじめ配備しておくという方法で補っています。

破壊されたら再生しないのに、外傷や脳外科の手術などで脳の一部が破壊されても、その後のリハビリテーションで機能が回復するのは、この物量作戦のおかげです。それまでは死んでしまった細胞が担っていた機能には全く関与していなかった細胞が、訓練によって死んでしまった細胞の機能を引き継ぎます。それまでは昼行燈のように何をしているのか分からない細胞が、仲間が討ち死にすると「いざ鎌倉」と活躍するということです。

昨日の自分が今日の自分と同一であり、明日の自分も同じであり続けられる秘密はどうやら脳細胞のこの特殊性にあるようです。もし脳細胞が粘膜細胞のように短期間で入れ替わるならば、1週間くらいで新しい自分になってしまうかもしれません。それはそれで日々新鮮な気持ちで生きられるかもしれませんが、いつも不安でしょうがないでしょう。

言い換えれば、自己同一性を継続的に保持するために、脳はあえて再生能力を犠牲にしていると考えてよいのではないでしょうか。


[i]最近の研究で脳細胞も特定の部位ではある程度再生することが分かってきました。また、シナプスはこれまで考えられてきたよりもずっと活発に新生、消失していることが明らかになっています。

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