投稿日:2011年4月4日|カテゴリ:コラム

台頭する民族主義とか民族間の争いといった活字をよく目にします。普段は特に何の疑問も持たないで分かったつもりでいます。しかし、一言で「民族」と言っても、実は民族の定義はとても難しいのです。特に私たち日本人は長い期間、海で遮られた島国に住み、同じ肌の色で、同じ言語をしゃべり、宗教はなんでもござれと言う生活をしてきましたから、民族について深く考えてきませんでした。周囲にいる人が同じ民族か否かなどと考える必要がなかったからです。
実はあらためて、民族とは何かと問われると実際には答えることはとてもむずかしいのです。分かったつもりで使っている「民族」の定義自体が極めてあいまいで流動的だからなのです。
一番納得しやすいのが生物学的な特徴による区別でしょう。肌の色によって白色人種、黄色人種、黒色人種と分けられます。しかし、この3分類では民族とは言えません。
中華思想によって支えられている中国人(漢民族)は同じ黄色い肌をしてお尻にあざ(蒙古班)を持っていても朝鮮人や日本人を同じ民族だとは思いません。民族といった場合には肌の色に加えて、文化的背景が重要だからです。
文化的背景と言えば言語を思い浮かべます。確かに言語は民族を定義する大事な要素です。しかしながら同じ語族が同一民族かというとそうでもありません。たとえば、ロシア語を話そうが、英語を話そうが、インディッシュ語を話そうが、ユダヤ人はユダヤ人です。
それでは宗教によって分類できるかというとこれまた難しいのです。カソリック教徒であることが一致してもドイツ人とフランス人は同一民族ではありません。むしろお互いを軽蔑しあう仲です。さらには宗教なんでもありの日本では、もし信仰対象で民族を区別したとするならば、世界でもまれにみる多民族国家になってしまいます。
極端な例では、植民地時代の宗主国が統治のために、同じ言語、同じ宗教の人々を勝手に区分けした結果生まれた、ルワンダのツチ族とフツ族なんてとんでもない例さえあります。
このように民族とは一概に規定できるものではないのです。自分たちがどういう基準に重きを置いて互いに同胞と感じあえるかという主観的な区別なのかもしれません。つまり、民族によって、また個人によってもアイデンティティーのためのよりどころは異なるのです。

福島原発は依然として先行きが見えません。このため、東北南部、北関東はもちろんのこと東京、北海道からも外国人観光客の姿が消えました。放射線障害を恐れてのことです。観光客が来ないのは当然と言えますが、これまで首都圏で仕事をしていた外国人も続々と帰国しました。その動きは日本全体に広がっているようです。「日本が大好きだ。日本に骨をうずめたい。」と言っていた外国人がそそくさと荷物をまとめて帰っていくそうです。
外国人だけではありません。母国を見限って外国へ避難する日本人も現われています。私のところにも外国に住む日本人から、「日本は危ないからこちらに来ないか」と、ご親切なお誘いもきています。
現在のような異常な状況に対してどのような行動をとるべきかというテーマに正解はないでしょう。人それぞれの人生観にしたがって自分の歩む道を決めればよいのだと思います。
私は今後考え得る最悪の状態にならない限り、現在自分が住む街から離れるつもりはありません。その理由は、この街に私を必要とする人がいるからです。私は決して有能な人間ではありませんが、それでも私を必要とする人がいる限り、この場を離れて生きることはできません。
もう一つの理由は私の日本人としてのアイデンティティーのよりどころがこの日本列島の国土にあるからです。もちろん、日本語を話すということも日本人を意識する重要な要素です。しかし、東京に生まれ、東京に育ち、東京で家庭を持ち、東京で働く私にとって、この土地と四季豊かな風土こそが日本人としてのアイデンティティーの基盤になっているのです。

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