投稿日:2010年10月25日|カテゴリ:コラム

小さい頃は、周りにいるすべての人が輝いて見えました。両親は何でも知っていました。おじいさんは秘密の隠れ場所の作り方を教えてくれました。風邪をひいた時、おばあさんの作ってくれた飲み物を飲むと嘘のように熱が下がりました。兄はいろいろな遊びを教えてくれました。
家族だけではありません。足の速い子。喧嘩の強い子。難しい漢字を知っている子。皆が怖がることを先頭を切ってやって見せる子。自慢の友達が沢山いました。
町に出ると、電車の運転手さん、高い柱組の上で動き回るとび職、大型クレーンを自分の腕のように操る操縦士さんなど、あこがれの人が溢れていました。
やがて、学校に上がり、周りの関心がテストの成績にばかり向かうと、自分自身の尊敬の対象も教師や先輩、そして優秀な同級生に限られてきます。卒業して社会人になるとさらに関心の幅は狭くなって、自分が所属する社会での成功者だけを認め、他の社会で活動している人には目を向けなくなります。
また、成長して自分が経験を積んでいくと自信が蓄積されます。自信の肥大に伴って尊敬の閾値が上がるために、ちょっとやそっとでは人を尊敬することがなくなります。
自信を持って人生を歩むことは良いことですが、自分が生きてきた狭い分野においてちょっと成功したということは、その人の全人格が優れているということにはなりません。依然としてスプリンターにはなっていませんし、高い建築現場で働くことやクレーンを動かすことができるようになったわけではないのです。にも拘らず、そういう人を見ても感動して尊敬しなくなるのはどうしてでしょう。
物事を勉強して、子供の頃魔法のように思えた能力は、実はそれほどたいしたことではなかったことを知るからだと考えるのが一般的でしょう。しかし、私はそれだけではないのではないかと考えます。

新しい物事を素直に見聞きして感動する能力は、我々ヒトの脳の優れた機能です。ところが脳は、すべての事象に対して感動していては疲れてしまうので、一定以下の入力刺激は過去の事例に照らし合わせて類型化、パターン化して処理します。「ああ、これは2年前にあったAと似たものだ」とか「この年齢でこの手の肩書の人は大体こういう人だ」というマニュアルで処理して、あるがままに検証しません。当然、新たな発見や感動など起こり得ません。
確かに、脳は日々膨大な入力を処理しなければなりませんから、このパターン化を有効に使わないとパンクしてしまうでしょう。それでも、脳の機能が十分に健康で余力がある時には、まだまだ多くのことに対して素直に反応して感動する糊代を保持しています。
ところが、脳が疲れて余力がなくなると脳は自分自身を守ることに全力を投入します。その結果、自己に否定的な入力を入り口で拒否します。また、そのフィルターを潜り抜けた入力であっても、それに対してまともに反応せず、すべてパターン化して処理しようとします。
この結果、脳の健康状態が保たれていない人は、他人の言うことに聞く耳を持たず、すべてのことを過去の乏しい経験にのっとって判断して、新しい事象を吸収し学ぼうとしません。ですから、他人の優れた点を認めて尊敬することなどできるはずがありません。
このような状態に陥る原因はいろいろあるでしょう。一般的には脳の処理案件が処理能力を上回った時に起こります。つまり、あまりにも多くの問題を抱え過ぎれば、他人の長所など認める余裕がなくなるというものです。それ以外では、各種精神障害の場合です。しかしながら、もっともよく見られる原因は、数多くの脳細胞が死滅して残りが少なくなる、脳の老化ではないかと思います。

多くの高齢者が、自分の人生に自信を持ち、自分の生き方以外を認めず、新しいことに感動して、若い人を尊敬することができません。その結果、「今の若い者は・・・・」や「私の若い頃は・・・・・」という言葉を頻発するのです。人間の能力や人格の優劣は年齢や肩書とは関係ありません。若い人であっても、またこれといった肩書を持っていなくても尊敬する点はいっぱいあります。物事に感動して、他人を尊敬するということは脳が健康でなければできないのです。

もし、「自分に対するゆるぎない自信を持ち、周囲にはこれと言って尊敬に値する人物はいない」と感じるようになった時は、本当に自分が偉くなったのではなく、むしろ自分がとても危険な状況にあるのです。なぜならば自分の脳がかなり老化あるいは病気になっていることを示すサインだからです。

【当クリニック運営サイト内の掲載記事に関する著作権等、あらゆる法的権利を有効に保有しております。】