投稿日:2010年10月18日|カテゴリ:コラム

私は3年前に胆石の手術を受けた際の術前検査として行った胸部CT検査でアスベストーシスであることを知らされました。医大卒業以来このかた、医師以外の職業に就いたことはありません。建築現場でアルバイトしたことさえないのでアスベストに被曝するはずはないのですが、専門外の私が見ても分かるほどはっきりとした胸膜プラークが映っています。
アスベストーシスは高率に中皮腫という肺癌が発症します。その上に主治医から、私のような愛煙家は発癌率が50倍に上昇すると脅されています。

アスベストーシスは青天の霹靂でしたが、ここ数年「自分の死」を強く意識するようになってきていました。今年還暦を迎えてからがさらに「死」をより具体的に考えるようになりました。
人生というものは自分の思い描くようにはいかないものです。私のこれまでの人生も、予測しなかった出来事の連続でした。これからの人生においても、まだまだハプニングがあると思います。その中で唯一確実なことは「死」です。
死ぬということは決まっているのですが、「死」の厄介なところは、いつ、どのようにという点が最後の最後になるまで分からないことです。
私はそれほど長生きしたいとは思いません。しかし、別に世を儚んでいるわけではありません。むしろ、幸せな人生を送ってきたと思っています。だからこそ、あまり長い期間苦しんだり、人に迷惑かけたり、みじめな思いをしたくないのです。
私に限らず、ある程度の年齢に達した方に聞くと、皆、口をそろえて「自分で自分のことができなくなったらころっと死にたい」、「周りにあまり迷惑をかけないうちに死にたい」と言います。また、「死ぬのは仕方ないが、ひどい痛みで苦しむのはいやだな」とも言います。
ほとんどの方が身体の自由が利かなくなる前に苦しまないで死ぬことを望んでいるようです。ベッドに寝たきりで、下の世話をしてもらいながら生きながらえることを望んでいる人はほとんどいないのではないでしょうか。ところが、なかなか本人の希望通りにはいきません。多くの方が不本意にも、3か月ごとに病院を移された揚句、「地域で面倒見てもらいましょう」とのきれいごとを言われて家庭に帰されて、家族に多大な犠牲を強いて生きながらえます。

私が心からうらやましいと思ったのは以前私が診ていた87歳のお爺さんの死にざまです。この方は元大工で妻と二人で年金暮らし。午前、午後それぞれ1回、近くの地蔵通り一往復の散歩を日課としていました。食べ物に好き嫌いはなく、1日10本程度の煙草と1合の晩酌を楽しんで暮らしていました。
4年前の春、午後の散歩から帰って、妻が淹れてくれたお茶を啜っていたところに近所の方が訪ねてきました。玄関で5分ほどの世間話が終わった妻がすぐ横の居間に目をやると、夫が卓袱台の上にうつ伏せになっています。声をかけても返事がないので確かめてみるとすでに息を引き取っていたのです。夫の目の前の飲みかけの茶碗の横にはきちんと入れ歯が置いてありました。呻き声一つ上げずに自ら入れ歯を始末して最後の瞬間を迎えた。大往生でした。
恥多き人生を歩んできた私ですから、彼のような素敵な死に方を望むことはできませんが、生死の淵を彷徨うのはせいぜい1週間くらいで勘弁してもらいたいと思っています。

誰しもだらだらと長く息だけしているのではなく、身の周りのことができなくなる前にぽっくりと逝きたいと願っています。家族も本音では、回復の可能性がないのならばいつまでも介護に煩わされたくないと思っているはずです。ところが、家族を含めて周囲の人は絶対にこの本音を口に出すことは許されません。本音と建前がこれほど違うのは他にないでしょう。
たとえ本人が「もう早く死にたい」と言っても、絶対に「そんなことを言ってはいけません。少しでも長生きしなければだめですよ」と言わなければいけないのです。そう言わなければ人格の根本を疑われてしまうからです。こんなコラムを書くだけ私は医師失格のレッテルをはられるかも知れません。
なぜこうなってしまったのでしょう。非常に難しい問題だとは思いますが、一つには、いつの間にか「一つの命は地球より重い」などというとんでもない嘘っぱちのきれい事が大義名分として通じるようになったからです。
もちろん、一人一人の命を粗末にしていいわけはありませんが、たった一人の命が、他の70億の人間とそれ以外の無数の生命体の合計よりも大事であるわけがありません。それに、繰り返して私がこのコラムで述べてきたように、生命は個々の命として考えるだけではなく、種としての命という側面からも考えなければなりません。
地球の全生命体を一つの生命とした場合、一人のヒトは1個の細胞に当たります。生命体を健全に維持するためには個々の細胞は新陳代謝をしなければなりません。つまり、古い細胞が死に新しい細胞に置き換わらなければならないのです。地球生命を中心に考えた場合、古いヒトは役割を終えたら死んで、新しいヒトがその役割を引き継がなければなりません。
角質化した皮膚がいつまでもこびりついていると新しい健康な皮膚の発育が阻害されるのと同様に、私たちも一個体としての役割を果たしたならば、次世代にバトンタッチをしなければ人としての種の健康が保たれないのです。
それなのに、健康維持を担う医学はこれまで個体としての生命、しかもその生命の量的側面ばかりを見てきました。生命を種として捉えること、また生命の質的な健康に対して関心が少なすぎました。このために、少しでも長く生きさせることが優れた医療という錯覚に陥っているのです。
本当は、人間はただただ長生きすることを望んではいません。少しくらい短くても良質な人生を歩みたいと思っている人は少なくありません。しかし、よい人生とは主観的で数値化できませんから、簡単に数字で表せて安直に評価を受けられる延命ばかりに腐心してきたのです。医療は平均余命や、生存率向上で見栄を張るのだけではなく、人々が良質な人生を送るために力を尽くすことを忘れてはいけないのではないでしょうか。
ところがお馬鹿さんたちはついに、数値化できるはずのない人生の質さえも定量化しようとしています。「楽しい人生を送るにはこのマニュアル通りに生活しなければいけませんよ」と。
メタボ健診がこの愚行の象徴でしょう。健康とは「腹囲を85ch以以下である」などと、素人が考えたって馬鹿馬鹿しいことを平気で制度化してしまったのですから恐ろしい限りです。酒飲んで、煙草吸って、うまいもの食って太っていたって自分の勝手、腹回りを当局から○○chにしろなんて余計な御世話というものです。

私はアスベストーシスも増税もなんのその、美味しい煙草と少々のお酒を楽しみ、子供たちが一人前になったらトンコロリと逝きたいと願っています。

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