投稿日:2010年8月23日|カテゴリ:コラム

思考は頭の中の発声を伴わない言葉(内言語)を用いられて行われます。だから、語彙が乏しくて、文法の異なる外国語で難しいことを考えてもよい結論には至りません。これは頭の中では高等なことを考えついているのにそれを言葉にできないだけというのではなく、思考そのもののレベルが低くなってしまうのです。
ネイティブでない人が英語で議論した場合、中学1年生レベルの英語力の人は中学1年生レベルの論旨しか展開できません。高校3年生のレベルの英語力を持っている人は高校3年生並みの主張をすることができます。つまり、思考力は言語力に裏打ちされているのです。
だから、私は以前のコラムでグローバル化の掛け声のもとに、小学校低学年における国語教育を削って英語教育を開始する現在の潮流に異を唱えました。この年齢はすべての分野の基礎力が養われる時期です。ここで国語力を鍛えないということは、すなわち思考力の低下につながります。
英語教育早期開始を訴える人たちの主張も実はここにあります。つまり、いくら日本語において優れた主義主張を持っている人でも、外国語力がなければ、外人相手の交渉であっさりと負けてしまうことを危惧しているのです。しかし、本当に外人相手にその国の言葉で打打発止とやりあうための語学力にはネイティブに近いバイリンガルのレベルが要求されます。中途半端なセミリンガルでは所詮たいした交渉はできません。
そこで、小学校から英語教育をしたとしても、バイリンガルを育てることはそう簡単ではありません。なんとかセミリンガルを創り出すのがやっとのことだと思います。
悔しいことですが、経済、軍事的な力関係から、今の世界では英語をしゃべれなければ海外での活動はおぼつきませんが、本当の勝負は表面的な語学力ではありません。ましてや語彙の数ではなく、その人の思考力、人間力です。難しい部分は通訳に頼ればよいのです。まずは、思考力その物を高くすることに精進するべきなのではないでしょうか。そのためには母国語を徹底的に教育しなければなりません。
私は英語教育を軽視しているのではありません。二兎を追う者は一兎をも得ず。外国語を教えるために母国語の教育をないがしろにすることに反対しているのです。

語学力の重要な要素に語彙数があります。一つのことを言うのにどれだけのの表現を持っていて、それぞれの微妙な意味や使用法の違いを知って使い分けられるかで語学力のレベルに差が出ます。その差は思考力にも影響します。なぜならば語彙が豊富だということは、内言語が豊かであることであり、概念が豊富であるということだからです。
朝の挨拶一つとってみても、「おはようございます」、「こんにちは」、「ごきげんよう」、「おはよう」などの言葉を時と場所に応じて使い分けられる人と、どんな時でも「ちわーす」しか言えない人とでは、頭の中身の差は歴然でしょう。
ただし、難しい単語をいくら数多く知っていても正しい意味を理解して、正しい脈絡を持って構成された文章表現をしなければなりません。すなわち、論理的な思考力が要求されます。意味を理解しないままに、耳に覚えのある言葉を脈絡なく並べ立てたならば、かえってお馬鹿さんを露呈しかねません。A元総理は漢字の読み間違いだけではなく、しばしば言葉の間違った使い方をしていたのであれだけ皆から揶揄されたのです。
脈絡なく単語を並べ立てる意味不明の発言の最右翼はなんといっても巨人軍監督の原辰徳さんでしょう。彼の残した迷言をいくつか披露しましょう。
「悩みは誰にでもある。しかし、太陽は東から昇り、西に沈むんだ。」
「巨人軍は、巨人軍独特の何人も侵すことのできない聖域がります。」
「今の気持ちを表現するならば、大きな海が非常に凪の状態になっているという感じです。侍ジャパンは日本野球人、いや、世界野球人の代表。誇りという部分においては、しっかりと戦ってくれると信じています。」
またとある実況解説で、「プロ初本塁打というのは打った場所、相手、球種、場面。すべてにおいて頭にインプットされているものなんです。彼も生涯、忘れることはないでしょう」と爽やかな発言に対して実況アナウンサーが「ちなみに原さんのプロ初本塁打はいかがでしたか?」と切り返すと、「わかりません」と即答したのは有名です。
彼の生き生きとした感情は伝わってきますが、何を言わんとしているかは全く不明です。論理的思考とはかけ離れた発言ですが、嫌みのない人柄から、愛されこそすれ軽蔑されることはありません。ただ、正しい国語を教育して国民の思考力向上を目指さなければならないのに、次から次へと悪文例を作り出してくれる甚だ困った人でもあります。
原監督の大先輩であり、国民的英雄であった長嶋茂雄さんは原語録がかすんでしまうような迷言、珍行動を残しています。天然ボケは巨人軍の伝統なのかもしれません。

ところで、意味のない言葉の羅列は巨人軍の専売特許ではありません。最近、一般の方の会話の中に、気になるものが増えてきました。いろいろと単語や用語を並べ立てていて、耳にしただけでは何か大層なことを言っているように聞こえます。御本人も格好よく雄弁を奮っているように勘違いしているのですが、よくよく吟味してみるとほとんど内容のない会話。そういう発言をしばしば耳にします。
そういう見かけ倒しの雄弁で目立つフレーズが「・・・・の上に、・・・」、「・・・・の中で・・・・」や「・・・・における・・・・」です。中も外もない、上下とはまったく無関係な文脈の中に、なぜか「上」や「中」や「おける」をつけたがる人が少なくありません。
考えるに、語彙が乏しくて論理的思考訓練が不十分なために、それまできちんとした日本語を使ったことがない人が、社会人となって必要に迫られ商用文を覚えたところ、思考がそのパターンだけになってしまったのではないでしょうか。
自分の思考力の乏しさを糊塗しようとしているのでしょうが、いくら形式ばった言い方をしても内容がなければ滑稽なだけです。しかも、長嶋さんや原さんのように伝わってくるパッションもありませんから、むしろ後味の悪さが残るだけです。
結局、母国語、外国語に限らず、雄弁とは流暢に格好よくしゃべることではなくて、相手にこれだけは伝えたいという強い思いに裏打ちされた発言なのではないでしょうか。その強い思いがなければどんなに難しい単語を弄しても意味がないのだと思います。また、語彙が豊富で論理的であっても、その根底に実直な思いがなければ単なる詭弁です。竹中平蔵がよい例です。逆に外人がたどたどしい日本語でしゃべっても、真剣に何かを訴えている時には、私たち聞き手の方が想像力を動員して、その意を理解するではありませんか。
つまり、本当の雄弁とは鋭い感受性、高い思考力、そして相手に対して誠実に向き合うことによってなされるのだと、自戒を込めて断言します。

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