投稿日:2010年7月19日|カテゴリ:コラム

私が今年3月で還暦を迎えたことはすでにお話ししましたが、私はもっとご高齢のゴルファーとプレイすることが少なくありません。むしろ私より若い方とプレイする方が稀です。
70過ぎ、80歳に近い方でも体力があって、ほとんどの方がこの暑さの中を歩きでラウンドされます。しかも皆さん、私よりもずっとお上手です。それなのに、御本人たちはとてもご不満のようです。
なぜならば、日頃いくら健康に留意して、トレーニングを欠かさなくても、70歳を過ぎるとどうしてもゴルフの腕前が落ちてしまうようです。いくら筋力を維持しても体の柔軟性と集中力の低下は防ぐ術がなく、パットが入らなくなり、ショットの飛距離が落ちてしまいます。
経済でも何でもそうですが、絶対値よりも変化の方向の方が気分に大きな影響を与えるようです。つまり、だんだんに上手になっていく時は喜びに満ちていますが、昔できていたことができなくなるということは耐えがたいことのようです。ですから、こういうグランドシニアのゴルファーとプレイをしているとしばしば「昔はこんなもんじゃなかった」という発言を耳にします。
確かにそうなのでしょう。昔、上手であった人ほど忸怩たる思いにさいなまれるはずですから、私のようなへぼと一緒にプレイしている自分が情けなくなって、ついついそのような言葉を口にしてしまうのだと同情を禁じ得ません。
しかし、スコアはご本人のおっしゃる通りなのかもしれませんが、飛距離に関しては、眉に唾しなければならないことが少なくありません。というのは老ゴルファーの「昔はこの木を悠々と超えていたんだけどな」という話を真実とするならば、昔の彼らは遼君よりも飛ばしていたことになってしまうのです。その頃のクラブは今のような硬くて軽くて弾性率が高いものではなく、柿の木を削りだしたクラブでした。にわかには信じられない話なのです。
彼らは大嘘吐きのほら吹きなのでしょうか。私はそうは思いません。本人は自分の記憶に基づいて嘆いているのだと思います。ただ、肝心の記憶が事実と異なっているのです。脳の老化と悔しい思いが記憶を事実から乖離させてしまったと考えます。「記憶のメタモルフォーゼ(変態)」と言うと分かりやすいのではないでしょうか。

記憶という機能はよく、大きな金庫の引き出しに物を蓄える作業に喩えられます。そして記憶を構成する記銘、保持、再生、再認の4つの下位機能を次のように説明します。
記銘:必要な物(情報)を引き出しにしまう。
保持:引き出しで長時間保管する。
再生:その情報が必要となった際しまってあった情報を引き出しから取り出す。
再認:取り出した情報が必要とされたものかどうか検証する。
この喩はとても分かりやすいので、私もしばしば利用させてもらっています。
しかし、実際には記憶は物質的な塊ではありません。宝石をしまっておくの
とは根本的に違うのです。また、引き出しにあたる脳も時々刻々と新陳代謝さ
れているのです。脳が死ねば記憶も消失してしまいます。つまり、記憶とは脳組織が絶え間なくエネルギーを消費することによって保持しているダイナミック(動的)な情報なのです。したがって、引き出しである脳の状態によって中身の記憶が容易に変態します。
このメタモルフォーゼはよいことはよりよく過大に、一方都合が悪いことや嫌なことは小さく過小に変態する傾向があります。これは脳(自我)の自己防衛反応であると思われます。以前のコラムに書いたように、ヒトは本能が退化して発達した自我に依存して生きる少々毛色の変わった動物です。ですからこの自我が崩壊すると大変なことになります。そのためには自我に都合の悪い情報は変態させたり消失させる必要があるのです。
嘘はおそらくヒトのもつ特殊技能だと思います。他の動物は嘘が吐けません。「嘘」も人が地球上でこれだけの繁栄を気づいた大きな要因でしょう。そして、昔から「嘘も100回吐けば真になる」と言われるように、こうあってほしいと思って事実に反する主張を繰り返すうちに、自分自身それが真実であるかのように考えだします。自分自身の嘘による記憶のメタモルフォーゼです。
嘘による記憶のメタモルフォーゼは刑事事件の被疑者に見られることがあるそうです。否認し続けているうちに、自分の記憶の中から犯罪行為が消去されることがあるそうです。さらに、詐欺師や政治家や新興宗教の教祖は記憶のメタモルフォーゼ機能が人並み以上に発達した人なのだと思います。

斯く言う私の記憶も年とともに大分メタモルフォーゼしてきたようです。なぜならば、いろいろな場面で「昔は良かった」と感じるようになってきたからです。やがて記憶の中で自分の過去が錬金術のように輝きを増し、「今の若い者は」という説教が多くなるのでしょう。

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