先日、新聞の書評を読んで「数の宇宙」という本を取り寄せてもらいました。ついでに数学と宇宙物理に関する本を数冊購入してきました。このところ、週刊誌程度しか目にしていなかったので、歯ごたえがあります。しかし、大学受験の時に医学を選ぶか物理を専攻するか迷った物理好きの私ですから、やはり物理学に対する興味が尽きることがありません。
私に限らず森羅万象、この世の仕組みを解き明かす有力な方法である数学や物理学に関心を持っている方は少なくないと思います。なぜならば、この世の始まりとこの先向かう先を知りたいという願望は人間という生物に固有の欲求であって、その欲求の程度は「業」呼べるほどの根強いからです。
なぜそんな業に捕らわれたかと言うと、人間という動物は本能が退化して、それに代って自我が発達しました。そしてこの自我を拠り所として生きる道を選択したことにあるのではないでしょうか。
自我は森羅万象の一環として生命誕生以来機能してきた本能と違って森羅万象に対峙する性格をもちます。にも拘らず、人間の自我は未だ生まれたばかりでか弱く脆いのです。そこで何よりも先ず自身の存在理由を求めて止みませんが、その答えは未だに見つかっていません。だから私たちは、神、国家、民主主義などの幻想で己を支えなければ生きていけないのではないでしょうか。
数学や物理学を用いた宇宙の誕生と行き先の探求とは、幻想に頼らないで、世界の仕組みと自分という存在そのものを明らかにしたいという、根源的な欲求を満たす作業の一環なのです。
残念なことに、多くの物理学者や数学者の精力的な努力にも関わらず、ゴーギャンの「我らいずこより来るや?我ら何者なるや?我らいずこへ行くや?」という命題、またアインシュタインの「我々は何故世界を認識できるのか?」という問いに対する答えは見つかっていません。
さて、数学の基礎を築いた人と言えば古代ギリシャ時代の偉人、二等辺三角形の斜辺の長さを求める定理で有名なピタゴラスという答えが衆目の一致するところでしょう。ピタゴラス(BC569~475年)は数学と哲学、宗教の概念を同一に考えて「マテマティコイ」という教団を創り閉鎖的な集団の中で幾何学、数学に関する数々の発見をしました。
彼は「万物は数である」という言葉を残しています。数に惹かれ数に殉じた一生でありましたが、「ゼロ」という概念を数字として確立していませんでしたし、ピタゴラスの定理と矛盾するにもかかわらず、すべての数は「有理数」だと信じていたようです。
奇しくも、ローマで数学の芽吹きが起こったちょうどその頃、東の国インドでは地球が生んだ史上最高の哲学者、釈迦が瞑想の中で様々な物事の理を悟りました。彼は電子顕微鏡などない時に物の最小単位、原子の大きさを推測していましたし、仏陀となった彼の訓えの一つ「色即是空。空即是色。」*1は量子宇宙物理学の最新研究の結果得られた「宇宙の始まりは真空であった」という説を見事に予見していました。
そもそもインド、中国と伝わった思想が生んだ「宇宙」という言葉は、西洋科学ではアインシュタインの登場を待たねばならなかった時空の概念を表わしています。釈迦の偉大さに改めて驚かされます。
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*1:色即是空、空即是色:色とは現象界の物質的存在のこと。そこには固定的実体がなく空(くう)である。一方、固定的実体がなく、空であることによってはじめて現象界の万物が成り立つということ。