先日一つの朗報が入りました。メタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)の適正な診断基準を検証していた厚生労働省研究班(主任研究者=門脇孝・東京大学教授)が、診断の大黒柱とされてきた腹囲の数値によってでは、心筋梗塞や脳梗塞の発症の危険性を明確に判断できないという調査結果を発表したのです。
私が一昨年のコラムで指摘した問題点を正式に認めたわけです。誤った判断基準を科学的根拠にして厚労省が強引にスタートした特定健康診査がようやく見直されることになりそうです。
「100円玉と1円玉とどちらが重いか」と聞かれて、それぞれを数百個ずつ集めて重さを測定して統計処理をした後に、「危険率0.001%で有意に100円玉の方が重いです。」と答える人がいるでしょうか。それぞれ1個を両掌に載せてみれば100円玉の方が重いことは一目瞭然です。ところが実際にはこういう馬鹿げた結果の発表がとくとくとなされているのです。
以前ならば大変な労力をかけて手計算していた統計処理ですが、コンピュータが普及した今では、単にデータを入力しさえすればとても複雑な検定がクリック1回でできて、グラフまで作ってくれます。
余りにも簡単に計算ができるので、データの意味を深く考察する前に、とりあえず何でもかんでも検定してしまうようになりました。そうなると、たまたま偶然の出来事でも関連性があるかのような検定結果をはじき出してしまいます。
たとえば、たとえば過去十年間の様々な価格変動の資料をもとに手当たり次第に相関関係を計算したところ、ソウルの朝鮮ニンジンの値段とニューオルリンズのA教会への寄付金との間に有意の相関係数値が得られたとしましょう。この結果をもって、韓国の朝鮮ニンジンの値段が上がるとアメリカ南部の教会の寄付金が増えると結論付けることができるでしょうか。
まさか、そんな結論を真顔で発表する人はいないし、もし発表したとしたら皆から一笑に付されることでしょう。しかし、対象が専門的で複雑なものの場合には、よほど慎重に考えないとばかげた結論を鵜呑みにしてしまいます。受け取る側だけでなく、計算をした者でさえ、その計算結果に意味があるのかないのかの判定が難しい場合も少なくありません。こうしてとんでもない学説が罷り通る可能性が出てくるのです。
多くの方が誤解されていますが、統計が真実を導き出すのではありません。統計的手段は、研究者の洞察から導き出された結果に対して一定の保証を与えるだけです。データから結論を導き出すのはあくまで研究者の論理的な思考によるのです。
また、本当に因果関係があったとしても、原因と結果を取り違える危険性もあります。たとえば、癌患者の様々なデータを集めた調査によって、癌の進行度とその人の所得との間に負の相関が得られたとしましょう。普通に考えれば「癌が重症になると仕事ができなくなり、治療費もかさむために貧困になる」という当たり前の状況を表していると思うのですが、曲解すると、貧乏な人ほど癌が進行するという結論になってしまいます。
特定健康診査で採用したメタボリックシンドロームの診断基準では血圧、血糖、血中脂質の3項目の上位に腹囲を据えていました。しかもその腹囲の基準値が男性85センチ、女性が90センチであったのです。
身長の高低によって左右されるはずの体重や腹囲を、それに比べて他因子の影響を受けにくい血圧、血糖、血中脂質という項目に優先させるということは素人目にもおかしいと感じます。その上、あろうことか平均身長が高い男性の腹囲の基準値の方が平均身長の低い女性の値よりも小さいというからびっくり仰天ではありませんか。
身長が170センチ以上ある男性で85センチの胴回りはごく普通の健康体に見えます。80センチ以下であったら体型維持に腐心しているナルシストでなければ悪性の慢性疾患をもっているのではないかと疑ってしまうほどです。一方、160センチに満たない身長で90センチを超える胴回りの女性は相当なデブで、健康診査をする前からご本人自身が食事制限と運動の必要性を考えていたに違いありません。
この判定基準には男女を問わず驚きました。特に男性の場合には、それまで健康と考えて生活をしてきたのに、青天霹靂のごとく「メタボリックシンドローム予備軍です」と宣告された方が少なくないのですのです。また、この健診が腹囲を強調するあまりに85センチ=メタボ=デブという先入観が蔓延して多くの男性が「デブ男」という謂われなき汚名を着せられました。
一方、かなりやばい女性に「メタボにあらず」という誤ったお墨付きを与えてしまいました。気を許して健康被害を増大させた可能性があります。
世界中に類を見ない非常識な基準の健康診査が行われた原因については以前のコラムで詳しく書きましたので多くは繰り返しませんが、科学研究のいろはを知らない肥満学会のボスが統計の意味や原則をわきまえないで行った研究結果が大手を振ってまかり通ったことにあります。さらに、その男の主張を真に受けた国の審議会の座長(臨床を知らない元公衆衛生学教授)の不見識によります。
しかし、彼らだけに罪を着せるわけにも参りません。ただただ医療費削減だけしか眼中にない厚労省の役人の不純な動機に基づく拙速な制度設計も責められなければなりません。
彼らは多額の税金を投入して、いたずらに国民に健康不安をあおったことになりますが、結局は彼ら関係者から謝罪の言葉を聞くことはないでしょうし、責任をとる行動もないでしょう。国やその威を借る狐どもが得体のしれない組織を隠れ蓑にしてしまい、誤りを認めることがないことは常識です。菅谷さんの冤罪事件に対する再審公判において当時の担当検事からついに謝罪の言葉がなかったことがこの実態を象徴しています。
それに、肥満がよくないサインであることに変わりはありません。我々男性も85センチを努力目標としておくことにこしたことはありません。気を許さずに日頃の生活習慣に気をつけましょう。
ただ、今回の騒動から得た教訓は、やたらに具体的な数字を掲げて科学的であるかのように見せかけるやり方に十分に注意すべしということです。繰り返しますが、はっきりとした真実は取り立てて難しい手法を使って説明をする必要はありません。複雑で難解な科学的手法を駆使したデータを見たら、すぐに鵜呑みにするのではなく、まずは眉に唾してじっくりと見据えることをお勧めします。