投稿日:2009年11月23日|カテゴリ:コラム

ある国の3王女はいずれも美しい娘でしたが、中でも末娘のプシューケー(Psyche)の美しさはこの世のものとは思われぬほどで、美の女神アフロディテーの美しさをも凌ぐほどでした。
人間の女に負けることなどあっては沽券が許さないアフロディテーは息子の愛の神、エロースに黄金の愛の矢を使ってプシューケーを恐ろしい恋に落とすように命じます。
エロースは母の命に従ってプシューケーに黄金の矢を射ろうとしますが、眠っているプシューケーのあまりの美しさに驚いたエロースは誤って、手にした矢で自分の胸に傷をつけてしまいます。こうしてエロースはプシューケーへの恋に落ちます。
一方、いつまでたってもプシューケーに求婚者が現れないことを心配した父王がアポロンの神託を伺うと、エロースの恋の成就に協力したアポロンが「プシューケーを岩山において立ち去れば、夫となる恐ろしい蛇が迎えに来る」と告げました。
神託に従って岩山に取り残されたプシューケーは、風のよって美しい城に運ばれます。そこには誰の姿もありませんでしたが、美しい音楽が流れて美味しい食事が用意されていました。
やがて夜になると、すべての灯りが消されてエロースがプシケの元を訪れて、二人は結ばれます。エロースがこのような方法をとったのは、神が人に真の姿を見せれば、人は無事ではいられない定めだったからです。エロースは明るくなる前に城を去り、夜になると再び訪れる。こうして暫くの間二人は幸せに暮らしました。
ところが、妹のことを心配して探しに来た二人の姉たちが、妹のあまりの幸せな暮らしぶりに嫉妬して、夫への疑念を吹きこみます。
プシューケーは姉たちに唆されて、夫が眠ったのを見計らってランプに火を灯します。すると、その灯りに浮かび上がったのは美しい天上の神の姿でした。プシューケーは夫を信じなかったことを後悔しますが、後悔すでに遅し。プシューケーの裏切りを知ったエロースは妻に別れを告げて姿を消してしまいます。
プシューケーは愛しい夫、エロースを探す決意をして様々な神たちに助けを求め回りますが、神々はアフロディテーの怒りを恐れて手を貸しませんでした。
そこで、プシューケーは直接アフロディテーを訪ねて懇願します。アフロディテーはプシューケーに様々な難題を与えます。プシューケーは課された難題をやっとの思いで果たします。最後の課題として、黄泉の国の女王ペルセポネのところに行って「美」を分けてもらうように箱を渡されます。
ペウセポネにアフロディテーの頼みを伝えて、返してもらった箱は固く蓋が閉ざされていました。そのままアフロディテーにその箱を届ければよいのに、つい中にはいっている「美」を見たいという好奇心と、自分もその「美」を少し使いたいという誘惑に負けて、箱を開けてしまいます。
ところが箱の中には「美の秘薬」などは入っておらず、「地獄の眠り」が入っていました。このために箱を開けてしまったプシューケーは地獄の眠りに襲われて意識を失って、生きる屍となってしまいました。
一方、母の元で心の傷を癒していたエロースは、回復するとじっとしていられないで、プシューケーを探しに出ます。そしてプシューケーを見つけると、その身体から地獄の眠りをかき集めて箱に戻して、愛するプシューケーを目覚めさせました。
その後エロースの願いを聞いたゼウスがアフロディテーを説得して、エロースとプシューケーの間を認めさせます。こうしてプシューケーはゼウスからネクタールを飲ませてもらい、永遠の命を与えられて神に列せられ、エロースとの間に「喜び」と「若さ」という双子をもうけて幸せに暮らします。
神となったプシューケーに与えられた役目は「『愛』を支えるのは見たり聞いたり触れたりして確かめることではなく、お互いが相手を信じる『心』ですよ。」と恋人たちに囁くことです。

精神医学を表すPsychiatryや心理学を指すpsychologyのPSYCHEは、この神話の主人公プシューケーに由来して、古代ギリシャ語で「心」や「魂」を指します。
さて、古代ギリシャ語のプシューケーには「心」の他にもう一つの意味があります。それは「蝶」です。したがって西洋の美術作品に描かれたプシューケーの背中には蝶の羽が描かれていますし、心や魂の象徴として蝶だけが描かれることもあります。
なぜ、心と蝶が同じ言葉なのかというと。蝶々は卵から幼虫、幼虫から蛹、蛹から羽化して美しい羽根をもつ蝶へと生まれ変わります。エロースとの愛の物語からわかるように、人は疑惑や誘惑にまどわされて傷ついたり、様々な艱難辛苦を乗り越えて、初めて喜びや幸せを享受できる美しい心を完成させることができるからです。
古代人は、心とは生まれ持って授かっているものではなく、発展形成されてできるものであることを看破していたのです。教条的にこうあるべきとしか言わないキリスト教以降の考え方に比べて、古代ギリシャの人々の方がはるかに真実を的確にとらえているように感じます。
先日、私は職員の結婚披露宴の祝辞に、今の話を元にして、「二人の愛の心は今はまだ生まれたばかりの幼虫です。これから出会う様々な出来事を二人で乗り越えていくことによって、美しい愛の心を完成させるように努力、精進してください」と述べました。

さて、皆さまの中に私と同じ疑問を感じた方がいらっしゃると思います。成長とともに姿を変えていくものは、何も蝶だけではありません。それなのになぜ心=蝶なのでしょう。
私は古代ギリシャ人が心のもう一つの性質として、何物にも束縛されず自由であるべきと考えていたのではないかと思います。先入観とか常識とかに拘泥せずに、物事をあるがままに捉えて融通無礙であることが大切であると説いているのではないでしょうか。
しかし、ギリシャ人たちはかなり現実的であり、決して道徳的とは言えませんから、もしかすると浮気を正当化するための予防線なのかもしれませんね。ですからこの辺りは結婚披露宴では言えない部分です。

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