投稿日:2009年6月29日|カテゴリ:コラム

私は自他共に認める「おばあちゃん子」でした。昔から「祖母(ばば)育ちは三百安い」*1と言われるように、確かに私は祖母の溺愛に甘やかされて育ったために、我儘で協調性に欠けるようです。
しかし、両親に加えて祖母からの溢れんばかりの愛に恵まれて育てられたお陰で、無用な劣等感を持つことなく、自分という存在に誇りを持って生きてこられたと思っています。
たくさんの人と会うことを商売としていますと、最近は何かと言えばすぐに僻んだり、他人を恨む傾向が強くなっているのではないかと感じます。他人に対しての寛容さが小さくなって、相手を攻撃する能力ばかりが高くなっているようにも感じます。
こういった傾向の根底には、核家族化によって両親とは異次元の理屈を超えた祖父母の愛情を受けることなく育つようになったこともあるのではないかと考えています。他者との優劣とは関係なく、ただそこに存在するということだけで愛されるという経験をすることが健康な自我の発達にとても大切だと思います。
祖父母と一緒に暮らす素晴らしさは、このような無償の愛だけではありません。言い尽くされていることではありますが、昔からの言い伝え、習わし、人生哲学を肌身を通して伝授してもらえます。私が取り立てて習い事をしないでも、一人で和服を着ることができたり、茶席に招かれても困らないのは、皆祖父母との同居生活があったからです。
祖父母から教えられた物事を書きだしたらきりがありませんが、その中で常に私の行動規範になっている教えが「分相応に生きなさい」と「みっともない真似はしないように」の二つです。
実はこの二つの教えは密接につながっています。分不相応な生き方はみっともないですし、格好良く生きるということは分を弁えた中で縦横無尽に活躍するということだからです。
人が天から与えられた自分の個性、能力を生かして、実りある人生を送る上でとても大切なことだと思うのですが、近年この「分」という言葉は死語になってしまったようで、とんと耳にすることが少なくなりました。そして、現実に今の世の中では分を弁えずに悪戦苦闘して傷つく人、分不相応な望みのためになりふり構わず金儲けや功名に走るみっともない人が急増しているように思います。
人が分不相応な欲望のために動くと本人が意味もない挫折感を味わうだけでなく、社会全体の健康な機能が損なわれてしまいます。

先日、東国原宮崎県知事が自民党古賀選挙対策委員長からの衆議院議員選挙への出馬の打診を受けて、引き受ける条件の一つとして自民党総裁の椅子を要求したことが大きな波紋を引き起こしています。
御当人は会談内容がリークされて非難の声の方が大きいとみるや、「地方分権を実現するための手段だ。」とか「自民党にそのくらいの意気込みがあるかを問うているのだ。」とか舌先三寸で論調を変えています。しかし、彼のこれまでの人生行路や言動の数々を振り返って見れば、自民党の混乱ぶりをみて己の上昇志向を満足させる千載一遇の好機と考えているのは明らかです。
そもそも、本人は「地方分権」というワンフレーズのキャッチコピーで国民をごまかせたと思っているようですが、「政策で全国知事会の要望を受け入れる政党を支持する」と言いながら、一方で「総裁選に出してくれるならば自民党から出馬する」ということは、まったく支離滅裂で理にかなっていません。
この男、お笑いタレントとしての知名度を頼みに宮崎産の物産を売り歩くセールスマンとしての腕前はそこそこ評価せざるを得ません。しかし、腰と膝を十五度ほど折り曲げて、揉み手しながら鼻眼鏡で歩く媚態は、やり手の押し売り商人以上の者ではありません。腰を折れば折るほど全身から成り上がり者、権力欲、傲慢な差別意識の異臭が漂ってきます。
彼の虚構の人気は御多分にもれずマスコミの力です。お笑いタレントで知事という美味しいキャラクターをテレビが放っておくわけがありません。普通の知事ならば絶対に取り上げられないような日常行動まで面白おかしくカメラが追いました。この結果、彼の知名度は鰻登りになり、本人も自分に本当に力があるかのように錯覚してしまったようです。つまり、マスコミが煽てあげて馬面の豚が木に登ってしまったということなのでしょう。

かたや東国原になめられた形の麻生さんは、棺桶に片足突っ込んでるにもかかわらず、都内を精力的に自民党公認都議選候補応援のために走り回っています。
そして、行く先々で馬鹿の一つ覚えのように、べらんめえ口調の演説を披露しています。その度に相も変わらずお馬鹿ぶりを発揮しているようです。先日も「必勝を期して」と言うべきところを「惜敗を期して」と振ってから「頑張ろう」コールをしてしまいました。しかも同席の議員から指摘されてもしばらく気付かなかったのこと。さらに情けないことにはこれほど致命的な言い間違いをしても、この手の失言は日常茶飯事となってしまったのでニュース性が無くなって、もはやマスコミにそれほど大々的に取り上げられなくなってしまいました。
この麻生「与太郎」さんの盟友と言われている安倍元総理の手書きの原稿が週刊誌にすっぱ抜かれて、胃弱な元総理大臣の頭の中身も明らかになりました。その原稿には「実績」が「実積」、「軍艦」が「軍盤」、「批判」が「批反」と書かれているのです。
総理大臣に漢検二級の国語力や当意即妙の話芸を要求する必要はありません。しかし、建国230年そこそこの移民国家ならばいざ知らず、少なくとも2000年を超える歴史と文化、そして何よりも1億2千万人の国民を代表する総理大臣には、少なくとも平均以上の教養と人格が求められて然るべきではないでしょうか。
カレンダーのように、交替する度に薄っぺらになっていく総理大臣。この流れの行き着く先が少女買春したチンケな破廉恥漢の立候補であることは当然の帰結なのかもしれません

マスコミが世論を支配するようになって、マスコミに露出する者が優秀であるかのような錯覚が蔓延しています。本人の実力とはかけ離れた嘘名がまかり通り、やがて嘘から出た真になってしまうのです。いまやマスコミが時代をいかようにも作り変えられると言っても過言ではないのでしょうか。
こういった悪しき流れをうまく利用したのが小泉でした。そしてマスコミによる嘘名を利用したビジネスもあらゆる分野で繁昌しています。たいして美味しくもない店でも金を払ってテレビに取り上げられれば、翌日から行列ができる「評判のレストラン」になります。医療の世界でもマスコミが「名医」を販売している話はすでに過去のコラムでご紹介しました。
このような悪弊の根源は、情報を受け取る側の我々が、その情報を正しく消化しきる能力を持っていない。つまり、本当に自分の目で物を見、自分の舌で味わい、自分の頭でものを考える力がないということに因ります。小泉以来の衆愚政治は私たちの能力の低さの証明なのです。しかし、そういった実態を知っていながら利益追求の目的でいたずらに世論を誘導するマスコミは絶対に猛省すべきです。

私は、戦後の日本人の間で死語となってしまった「分相応」という言葉を復活させることが急務であると考えています。もし分を弁えることが大切にされるならば、麻生さんも漫画以外の読書に励んだでしょう。安倍さんもスローガンとしてだけでなく、中身のある「美しい国、日本」を描けたのではないでしょうか。東国原に至っては、自分が総理大臣のいすに座っている姿が「猿に烏帽子(えぼし)」*2以外の何物でもないことに気付くはずです。
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*1:祖母育ちは三百安い:祖母に育てられた子供は、甘やかされて育ったために、他の子供と比べるとしっかりしたところがなく、劣って見えるということ。三百とは三百文という貨幣単位。「祖母育ちは銭が安い」とも言う。
*2:柄にもないこと、ふさわしくないことをするたとえ。また、外観だけ装って実質がそれにともなわないことのたとえ。猿に人間のかぶる烏帽子(えぼし)をかぶせるの意から。烏帽子とは昔、元服した男子の用いた冠物。

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