投稿日:2009年6月15日|カテゴリ:コラム

心の健康は単一の原因で損なわれることは多くありません。大半の場合、幾つかの要因が重なって病気になります。それらの要因は内因(素因)と外因に大別されます。内因とはその人の病気になりやすさであり、外因とは外から加わるストレッサーを意味します。その外因にも様々なものがありますが、とくに多いのが環境因と心因です。
劣悪な環境や嫌な出来事によって精神が不健康になるということは容易に想像が付きます。しかし、かなりショックな出来事であっても、それが一時的なことであったり、簡単に解決がつくことである場合には、なんとか心の健康を保てるようです。
例えば、搭乗予定の飛行機が欠航するということは大変ショッキングな出来事ですが、代替えの便がすぐに手配できれば、アンラッキーな思い出の一つになるだけです。このことが原因で精神障害になるということはめったにありません。
また、歩いていて酔っ払いに絡まれたとしても、さっさと逃げてしまえばそれまでです。しつこかった場合でも、法的な問題は残りますが、ぶん殴って退治してしまえば心の健康には問題ありません。
心の健康を損なう外因とは、一つ一つはそうたいしたことでなくても、慢性的に続くこと、あるいはなかなか解決策が見いだせない物事なのです。
例えば、自分に対してとても不愉快な言動をしてくる相手がいた時に、先ほど述べたようにぶん殴ってやっつけてしまうか、一目散に逃げ出して二度と会わなければ精神障害には発展しません。
ところが、人間は単独で行動する動物ではなく、社会を構成して、その社会の中でお互いに連携しながら生きていく動物です。そしてその社会は加速度的に複雑になってきています。ですから、暴力で解決することは禁じられていますし、不本意ながら虫酸が走るような相手とも接触することを余儀なくされます。
また、社会人になると自分の得意でないこともやらなければなりません。例えば、本来緊張しやすくて人前で話すのが苦手なのに、大勢の前でプレゼンテーションしなければならないなんてことはよくあることです。 社会が複雑で大きくなるに従って心の不健康を訴える人が多くなるのは至極当然と言えます。
法律や社会規範といった制限があまりなかった未開な時代には、暴力沙汰で身体的な傷害が絶えなかったかもしれませんが、精神障害はほとんどなかったと考えます。言い換えれば、現代人が生きていくためには、不本意な状況をうまく処理する技が要求されるのです。

私が精神療法の基盤としているのは、我が母校の初代精神神経科教授であった、故森田正馬先生が1920年頃に発案した森田療法です。森田療法は心の葛藤によって不健康になる神経質症の治療法です。森田は同時代を海の向こうで生きたフロイトの精神分析と対極的な考え方によって神経症にアプローチしました。
極東の島国の精神科医が考案した理論ですから、精神分析とは違って、長い間世界に知られることはありませんでした。日本においても精神療法の主流を歩んできたわけではありません。
それでも、その後弟子たちが地道に治療の実践と啓蒙活動を続けた結果、世界的な東洋文化の流行もあって、1960年頃から世界の注目を集めるようになりました。
ところが、森田療法は治療の実践の場で組み立てられたものであり、系統だった理論として発表されたものではありません。また、森田の理論は本人がどれほど意識したかどうかは分かりませんが、「禅」に通ずるところがあるので西洋人の注目を引く反面、用語やその解釈が難解で、正しく理解するためには、かなりの知的能力を要求されます。このため、誤解されている部分が少なくありません。

森田理論の重要なキーワードの一つに「あるがまま」というものがあります。この「あるがまま」とは種々の刺激に対して、必然的に起こる私たちの心理的、身体的な反応をあるがままに認めて、それを受け入れること。その反応を否定したり、ごまかそうとしないことを言っています。
例えば、大勢の人の前で話をしようとすれば緊張してあがってしまいます。いくら集中して勉強しようとしても、長時間にわたって一心不乱の状態で好きでもない勉強のことだけを考え続けることはできません。必ず雑念が浮かんでくるものです。常に爽やかに健康でいたいという願いは万人共通ですが、生き物であるある限り、時には頭が重かったり、肩が凝ったり、だるかったりします。
こういったことは、ヒトという社会的な生き物が避けて通れない、生理的な心身の反応なのです。自分にとっては不都合で楽しくない現象かもしれませんが、こういった心身の現象が起こることが現実であるということを、そのまま素直に受け入れることが森田の言う「あるがまま」ということです。
森田は「あるがまま」に自己の直面する現実を受け入れた上で、目的に沿った行動をとりなさいと言っています。すなわち、「あがってしどろもどろになったとしても、しどろもどろのままでいいから伝えるべき内容を話しなさい」、「雑念で効率が悪くなったとしても、それなりに目の前の勉学に取り組みなさい」、「たまに身体がすっきりしていなくてもその日やるべきことをやりなさい」と。
そうではなく、こういった心身の現象があると都合が悪いし、そんなことはあってはいけない、あるべきでないとして、人間として当然あるべき現象を「あるがまま」に受け入れようとせず、否定あるいは排除しようとすると、さらにその現象に悩まされることになってしまいます。
人間が行動をする時に大切なのはうまく、すんなりと、一片の不安もなく、快適に行うことではなく、本来の目的を達成することなのです。たとえ不細工であろうが、辛かろうが、不安や迷いをもっていたとしても、目的を見失わないで生きることが当たり前の生き方である。そのことを忘れないことが肝要であると説いているのです。
ところが人は往々にして目的と手段を取り違えてしまいます。
有意義で充実した人生を送るためには健康であることが望まれます。出発点はここなのですが、人によってはいつしか健康でいることが目的にすり替わってしまって、他人の役に立つことは何もせず、ひたすら自分が長生きすることを人生の目的とする人がいます。頭が重いと言っては家族を叩き起こし、37℃発熱したと言っては救急車を呼ぶ人がいます。
こういう生き方は、他人に迷惑をかけるだけでなく、本人も常に不安でびくびくするだけです。これを「ただ馬齢を重ねる」と言うのでしょう。
さて、この「あるがまま」もよく誤解されることばです。自分という自然の創造物は理想通りに作られていない。自分に不都合な事実も、生きているという現実の一部であるということを受け入れて、やるべき物事から逃げずに立ち向かいなさいという意味の「あるがまま」を、自分の思い通りにいかなかったり、不愉快だからそういう状況から逃れたり、横道にそれてしまう悪い行動パターンをあるがままに受け入れて良いと誤解する方が少なくありません。
例えば「人前で話すと上ずってしまうのでそういう場を避けてきた自分をあるがままに受け入れて、今後とも、たとえ業務と言えどもプレゼンテーションは断っていいのだ」とか、「体調不良を心配するのは当たり前だから、そういう心配症の自分をあるがままに認めれば、欠勤することはやむを得ないのだ」という解釈です。

森田理論の真髄である、この「あるがまま」は正しく理解したとしても、言うは易し行うは難しです。神経症の患者さんに限らず、私も含めて人間は自分に不都合なことは認めたくないものです。理想と現実がずれていることに気付いてもなかなか「あるがまま」にその現実を受け入れられません。
ですから、森田理論は何も神経症の治療だけのものではないのです。人がよりよく生きていくための指針を示していると言えます。
生活の中で何かに躓いたり、納得のいかない状況に陥った時には、一歩引いて「あるがまま」に俯瞰してみましょう。そうすれば、いたずらに不安に苛まれたり、自分を責めたり、他人を恨んだりすることが少なくなるはずです。

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