東京の桜もそろそろ満開となります。未曽有の不景気で夜の盛り場は閑古鳥が鳴いていますが、さすがにこの1週間は上野公園、千鳥が淵をはじめ桜の名所はどこも大勢の人で賑わうことと思います。
当クリニックの界隈では飛鳥山公園の桜が有名です。ただ、そこまで足を延ばさなくても小石川植物園近くの播磨坂の桜並木という素敵な観桜スポットがあります。もっと身近を探すと、当クリニックの斜め前の道路の両脇に、200mほど桜の木が並んでおり、地元商店街がこの時期桜祭りと銘打ったイベントを開催します。この桜並木は片側1車線の道路に覆いかぶさるように花を開くので、それなりに圧巻なのですが、いかんせん小さな道路なので筵を敷いて酒盛りする場所がありません。それでも、しばし立ち止まって花を見いる人が少なくありません。
ゴルフの世界でも、この時期はきれいな桜を配したコースを持つゴルフ場が大人気で、そういう所はあっという間に予約が埋まってしまいます。普段花などにそれほど関心のない親父ゴルファーたちでさえ、何とはなしに心がうきうきしてくるのは、まんざら花見にかこつけた宴会のためだけではないようです。
日本人がいかに桜を愛するかということは、俳句の季語や諺にも表れています。季語においても諺においても、ことさら名前を冠せずに「花」と言った場合には、言わずもがな、桜の花のことを指します。「花七日」、「花冷え」、「花より団子」などです。まさに桜は日本を代表する花と言えます。また、外国人の間にも「桜」=「日本」というイメージができあがっています。
ところが、桜は国が正式に定めた「国花」ではありません。イングランドがバラ、アメリカがセイヨウオダマキ、中国が牡丹と梅などを正式に国の花として指定しているのに、我が国は国花を正式に認めていないのです。
時と場所に応じて、天皇家の象徴である菊を使う必要があるための高度な政治的な判断なのだと思います。桜を国花に指定すると、長きにわたって我が国で培われてきた天皇制を否定することになるし、さりとて菊を正式に採用しようとすれば、戦後の民主主義国家を否定して戦前に逆戻りする動きではないかと、蜂の巣を突いたような大騒ぎになるでしょう。花一つとっても、日本は曖昧にしておかなければいけない、微妙なバランスの上に立った国なのかもしれません。
さて、国家はともかく、私たち国民にとって桜が日本という国、日本の文化を象徴する花であることに異論はないと思います。「日本人にとって桜とは」、「日本人はなぜ桜に惹かれるのか」というテーマについては、これまでに錚々たる文化人たちが論じ尽くしています。
共通した見解は「花は桜木、人は武士」という言葉で表わされるように、ぱっと華やかに咲き誇るが、いつまでも咲き続けることなく、惜しまれるうちに散っていく、その咲き方が、生や俗物に連綿と執着せず、いつでも潔く死んでいく覚悟のできている武士道の精神と合致しているからだと思います。
桜の花を観賞することによって、美しさ、生きている喜びを味わう一方、諸行無常、万物はすべて移ろうという、物の哀れを感じます。こうして日本人特有の感性が育まれるのではないでしょうか。
ぱっと咲きぱっと散る桜はただ暖かくなるだけでは開花しません。桜の花芽は前の年の夏ごろにできあがって、いったん休眠に入ります。休眠に入った花芽は冬の寒さを経験して初めて目覚め、この後に暖かくなると花開くのです。冬の寒さが十分でないと花芽の目覚めが悪いために、暖かくなってもなかなか開花しません。
厳冬を凌いで華やかな花を開く。こういった点も日本人の感性をくすぐるところかもしれません。
ところで、小泉元総理の人気が衰えない理由の一つに、続投を望まれながら政権の座を辞した潔さがあります。私は彼が総理の座に居座らなかったのは、あれ以上総理を続けていれば、自分のなしてきた政策がいかにひどいごまかしであったかがばれてしまうからにすぎないと思っていますが、大方の日本人には彼の行動に桜の美を感じたようです。
それに引き替え、麻生さんはまだ半年くらいしか総理の座にいないにもかかわらず、見苦しく政権の座にしがみ付いている寄生木のように見られていて、ちょっとかわいそうな気もします。
昔、北海道を本拠地とするビール会社の広告に「ミュンヘン、札幌、ミルウォーキー」というキャッチコピーが使われて流行りました。札幌が、ビールが美味しいと言われるミュンヘンやミルウォーキーと同緯度であることを唱っているのです。
子供だった私は早速地球儀を調べた覚えがあります。確かに三市は北緯四五度付近に位置していることを知りました。この他、ミラノやマルセイユもほぼ同緯度だということが分かりました。何度見直しても間違いありません。
しかし感覚的には今でもどことなく受け入れられないのです。それは、札幌は寒い北の国。ミュンヘンやミラノは暖かい南欧という先入観から抜け出せないからです。因みに、私が学生時代に訪れたアテネは福島とほぼ同緯度にあります。アテネと言えば白い石造りの建物にエーゲ海のブルーが反射する、温暖な土地を想像します。高校生の夏休みに避暑して勉強するために檜原湖近くの農村の学生村を利用したり、奥只見のスキー場で春スキーを楽しんだ経験のある私には、アテネ=福島と言われてもピンと来ないのです。
この違和感は、私が世界の中でかなり特殊な地理条件にある日本という国に生まれ育ったことに因るのです。
現在の人類の文明圏は地球の相当北に偏在していて、日本は文明国家の中では最南端に位置しています。さらに日本は周囲を海で囲まれるとともに富士をはじめ多くの山々をも有し、砂漠化せず豊かな緑を有しています。極めて環境に恵まれた稀有な文明国家なのです。
このような地理条件のお陰で、内に足を踏み入れれば深山幽谷の景を楽しむことができるし、海に臨めば白砂青松の美に酔いしれることもできます。
さらに、この緯度は春夏秋冬の四季を生みだし、同じ場所にいても一年の間に自然が千変万化して、四季折々に豊かな美しさと雪月風花という自然の移ろいを味わうことができます。日本に生まれて住みついていると、当たり前のことと見過ごされがちですが、同じような自然に恵まれているのは南半球のニュージーランドくらいのものと聞きます。
ヨーロッパではそれほど北の国ではなくても一年の大半は寒く、冬になると太陽の光は一日5,6時間しか拝めません。一方、常夏の東南アジアでは一年中花が咲いていて、哀れな風情など味わうことができません。日本に生まれたことはかなり幸運と言えるのではないでしょうか。
桜の美しさも四季がはっきりとした土地だからこそ味わえるのです。そして、その桜の咲き方を通して、優美で繊細でしみじみとした物の哀れを感じとることのできる感性が育まれるのです。
年に一回、桜の花を眺めることによって節度ある生き方を見失わないようにしましょう。