投稿日:2009年3月9日|カテゴリ:コラム

「千早振る(ちはやふる)」という落語噺があります。この話は自称「物知り」だが、その実はただ人より耳学問の量が少しだけ多い半可通、つまり知ったかぶりでプライドが高い人物を揶揄した噺です。
話を進行させるための題材は小倉百人一首の中の歌仙、藤原業平が詠んだ

「千早振る 神代も聞かず龍田川 唐紅にみづくくるとは」

(ちはやふる かみよもきかず たつたがわ からくれないに みづくくるとは)

という有名な和歌です。ここから外題が「千早振る」になりました。
この歌の本来の意味は「紅葉が龍田川の川面に映り、くくり染めのように見えている。こんなことは今までに一度もなかっただろう」というもので紅葉に映える龍田川の美しさを読み上げた一首です。
さて落語ではこの歌がどうなったのでしょう。この歌の意味を八五郎から尋ねられた御隠居、実はこの歌の意味など全く知らなかったのですが、常日頃、物知りを自称して、周囲からも「先生」と持ち上げられていた御隠居としては、ここで「知らない」と言ってしまっては沽券に関わります。そこで相手が何も知らないことをいいことに、勝手放題な解釈をして聞かせてその場を凌ぎ、自分の博識という面目を保とうと考えたのです。隠居のでたらめな解釈によって業平の秋の美しさを謳った名歌は以下のようになってしまいました。

相撲の人気大関であった「龍田川」が吉原へ遊びに行った際、「千早」という花魁に一目惚れしてしまいました。ところが、千早は相撲取りが嫌いなのであっさりと振ってしまいます(千早振る)。
振られた龍田川は千早の妹花魁の「神代」に乗り換えて言い寄りますが、神代にも「姉さんが嫌いな人は私も嫌いでありんす」と言われて断られてしまいました(神代も聞かず龍田川)。
こうして失恋が続いた龍田川は相撲に力が入らなくなって負けが混み、ついには力士を廃業し、豆腐屋を営んでいる実家に戻って家業を継ぎました。
それから数年後、龍田川の店の前に一人の女乞食が現れて、「おからを恵んでください」と言ってきました。初めは喜んでおからを上げようとした龍田川でしたが、よく見るとその女乞食は零落れた千早の成れの果てだということに気付きました。昔の恋の恨みを思い出した龍田川は、激怒しておからを上げずに放り出して(からくれないに)、千早を思い切り突き飛ばしました。
千早は井戸の傍に倒れ込んで、こうなったのも因果応報と世を儚んで井戸に飛び込んで入水(みずくぐる)自殺してしまいました。
これで、歌の「千早振る神代も聞かず龍田川唐紅にみづくくる」までは何とか辻褄を合せましたが、最後に残ってしまった「とは」の説明にはさすがの御隠居さんもはたと困りました。しかし、そこは根っからの屁理屈上手ですから、とっさの機転で「千早とは吉原での源氏名で、彼女の本名が「とは」だったのだと、最後まで強引に説き伏せてしまうのです。

プライドの高い半可通、知ったかぶりを扱った落語はこの他に「薬缶」、「天失気(てんしき)、上方落語の「つる」など枚挙にいとまがありません。いつの世においても、自分の実力のほどを知らないで、自尊心が高い知ったかぶりの大言ほど滑稽なものはないということでしょう。

さて先日、この数か月私が診ている高齢女性患者の長女が困り果てた顔をして相談に来ました。
その患者さんは認知症の初期によく見られる老年期の精神障害を患っています。記憶障害はまだそれほど進行していませんが、被害的な内容の妄想がしばしば出現します。また、感情をコントロールする機能が強く障害されてきたために、すぐに興奮して周囲に対して攻撃的な言動を頻発するようになりました。
こういった精神症状のために同居していた夫や介護の責務がある長女が困り果てて、昨年の夏、治療を求めて私の所に来たのです。夫は妻よりも高度の認知症で、一方とても温和な性格なので、妻の攻撃、興奮が激しい時には身体的な危険を生じることもしばしばでした。当然ながら、その患者さん自身は自分の精神状態が変調をきたしているということを自覚することはできませんから、進んで治療を受けてはくれません。皆で根気よく説得してなんとか薬を飲んでもらうことに成功し、また幸いにもこの薬がうまく功を奏したので、ここ数カ月とても安定した生活を送ることができ、周囲も安心していました。
ただし、薬には副作用が付き物です。こういった症状を治療する薬の副作用としては眠気やだるさが一般的です。高齢者ですのでことさら薬剤の選択とその量の決定には気を使いましたが、この患者さんの場合にも多少の眠気とだるさを免れることができなかったので、本人が服薬を止めてしまって、再び病的な精神症状が再燃することが一番の気がかりでした。ですから、私も家族もヘルパーも、彼女に関わる者すべてが服薬の励行、その一点に腐心してきました。
ところが最近、本人が昔から内科疾患や整形外科疾患の治療を受けてきた馴染みの医師が、本人の眠気、だるさの訴えを聞き付けて、御親切にも本人とその家族に服薬を止めるように忠告してきたのです。
曰く、「そういう薬(恐らく精神科医が処方する薬のことを言っていると思われる)は身体に良くないのよ!」、「この前やっていたNHKの番組でも抗うつ薬は飲まない方がいいって言ってたわよ!」、「そういう薬を使うのは娘のあなたが楽をしたいからだけで本人のためにはならないんだから!」、「薬使うくらいなら施設に預けることを考えなさい!」。
長女はその医師からものすご剣幕で叱られたそうです。ここで長女を弁護しますが、彼女は決して無責任だったり冷たい心の持ち主なのではありません。施設に預けることくらい、その医師に言われるずっと前から何度も試みてきました。しかし、本人が頑として拒否するために実現しないでいます。また、何も楽ばかりしてきているわけでもありません。手元に引き取って生活しようと、何度か自分の家に連れて行きましたが、本人が夜中に娘の家を飛び出して自宅に戻ってしまうことが続き、事故に遭う危険を感じて控えているだけなのです。
普段の苦労も知らないで、たまにやってきて文句ばかり言って帰る小舅みたいな医師の物言いに、長女は涙を流していました。
しかし、家族の心が傷つけられたことよりも、もっと困った現実的な問題があります。それは、もともと不愉快な副作用を感じていたところへもってきて、医師から「薬は飲まない方が良い」との御託宣を受けた患者さんが服薬をがんと拒否して、病状が悪化することです。やっとのことで構築してきた治療体制が、手前味噌な医師の一言によって一瞬に土崩瓦解してしまいました。
その医師が服薬をやめた方が良いという根拠になったNHKスペシャルのうつ病特集は、夜9時からのゴールデンタイムに1時間を超える枠で、力のこもった放送でした。近年、うつ病がいろいろな意味で脚光を浴びていることもあって、大きな反響がありました。
テーマの選択は良かったのですが、残念なことに編集されて出来上がった番組はかなり偏った内容になってしまいました。メンタルヘルスが流行りの時流にのって、きちんとした精神医学の研鑽を受けていない医師がメンタルクリニックを標榜、あるいは精神科医であっても営利追求のためにとんでもない診療をしている例があるということを報道するつもりであったのでしょう。しかし、テレビを観た一般の方中には「抗うつ薬は良くない薬だ。」、「薬を処方する医者は悪い医者で、薬を使わないで認知行動療法をする医者が良い医者だ。」との誤った認識に陥ってしまった方が少なくなかったようです。
私も本来数あるうつ病治療の手段の一つにしかすぎない認知行動療法の宣伝の番組のような印象を受けて違和感を感じました。また、今のところ、抗うつ薬がうつ病治療の主役であることはWHOを始め、世界中の精神科医が認める共通認識です。
しかしながら、大NHKの報道番組だけに良いにつけ悪いにつけ影響が大きく、この番組を観て、勝手に服薬を中止して病状が急激に悪化。その結果自殺した患者さんが出てしまって、改めてNHKスペシャルの報道の在り方に批判が出ています。

閑話休題、NHKの番組の評価は別として先ずもって言っておきたいのは、先ほどの患者さんはうつ病ではありません。ですから、治療に使用している薬も抗うつ薬ではありません。認知行動療法も無効です。脳の器質的な変化にともなって起きている精神症状ですから、再び妄想や精神運動興奮が長期にわたって再燃すると、脳の非可逆的な障害が加速度的に進行してしまいます。患者さんの病的な症状を治療することは、介護にあたっている周囲の人々のためだけではなく、本人のためでもあるのです。
それにしても件の医師は自分の専門外の治療に関して、しかも詳しい状況を知りもしないで、「薬は飲ませないように」などとよく注意できたものです。素人向けのテレビ番組から得た程度の知識に基づいて自信満々に専門的指導を行った勇気にはただただ畏れ入るばかりです。

「先生と言われるほどの馬鹿でなし」という諺あります。私を含めて、日頃から「先生」、「先生」と呼ばれる職業人はどうしても自省、自戒することが少なくなり、実際の能力以上に自己を評価しがちです。
医師はよほど気をつけないとプライドばかり高い、知ったかぶり、半可通の御隠居さんになってしまうのです。
実際医師仲間を振り返ってみますと、身の程知らずにも、計理士に向かって税務に関する講義をしたり、建築士に対して設計に関する訓を垂れたりして、周囲の苦笑をかっているのにもかかわらず、その嘲笑にさえも気付かず得意満面の夜郎自大みたいな医師を何人か思い浮かべることができます。
それでも、そんなことは新作落語だと思って陰で、笑っていれば済むことですが、医療現場において医師に「千早振る」やられたならば、笑って済ますことはできません。患者さんをはじめ多くの人に甚大な被害を与えるからです。下手をすれば人命にかかわります。

人の振りみて我が振り直せ。こんな批判を書いていますが、私自身自他共に認めるお調子者です。私こそ「千早振る」になる危険性がもっとも高いのかもしれません。ですから常に、分からないことを自覚できるようになるために勉強し、知らないことは知らないという勇気を持つように心がけていこうと思います。
知者不言。知らないことは語るべからずです。

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