投稿日:2009年2月16日|カテゴリ:コラム

家族向けに私が毎日1編のミニコラムを書いていることは以前にお話ししましたが、このコラムのために毎日、その日が何の記念日であるかを調べています。
そんなことをやっていたら、2月9日が1932年の血盟団事件や1982年の日本航空羽田沖逆噴射墜落事故などの悲惨な事件があった日であることを知りました。しかし、そういう眉を顰めるだけの日ではなく、思わず微笑んでしまう記念日であることも見つけました。
なんと、この日が愛猫家にとっては「肉球の日」という祝日なのだそうです。猫に魂を奪われた者たちの狂気に近い溺愛ぶりが窺い知れます。「猫可愛がり」とはよく言ったものだと、愛猫家のお馬鹿さんぶりを呆れながら、自分自身いつしか頬が緩んでしまいました。
そうなのです。何を隠そう、私は自他共に認める猫好きなのです。何よりの証拠に、このホームページの表紙にも我が家の愛猫、ムックの写真を掲載しています。ムックは最寄りの新大塚駅構内の掲示板上の当院の案内欄にも登場しているのです。
我が家にはこのムックの他にルイ、ジャスミンがいて、計3匹の猫が同居していています。家族全員猫好きなのですが、猫狂いにかけては私が頭一つ抜け出していると自負しております。
猫の方も私のことを一番信頼してくれているらしく、古くからの我が家の住人であるムックとルイは私の部屋を根城にしています。と言うより、私が2匹のテリトリーに居住することを許してもらっていると言ったほうが正しいかもしれません。
たまに私が外で飲み歩いて帰宅が遅くなると、彼等は玄関で私の帰りを待っているようです。遅くなりすぎた時には家内から「何をやっているの!早く帰りなさい!」という叱りの電話の代わりに、玄関で私の帰りをじっと待っている3匹の猫の写メールが届きます。その姿を見てしまうと、どんなに盛り上がって飲んでいる時でも、慌てて帰宅してしまいます。
それなのに、実際に家に着いてみると、彼等はことさら恨みがましい素ぶりをするわけではなく、「あっ、そう、帰ってきたの」というさり気ない出迎えをします。この犬のように直球だけに偏らない緩急自在の愛情表現によって、猫への想いは、さらに抜き差しならない深みにはまってしまうのです。

さて、猫は犬と並んで古くから人間が友として身近に飼ってきた動物の双璧です。犬は「犬は三日飼えば三年恩を忘れぬ」と言われるほどの飼い主に対する忠誠心が売り物です。この律儀さと同時に優れた記憶力、嗅覚を備えています。こういった能力によって犬は猟犬、牧羊犬、番犬、警察犬、盲導犬、救助犬、介助犬などさまざまな分野で人間の助手として活躍してきました。
一方の猫の場合も人間との関係の起源は、エジプトで穀倉を食い荒らす鼠に対する用心棒として飼われ始めたと聞きます。しかしながら、鼠を捕る以外これと言って人間生活の役に立ちません。また、すべての猫が鼠を捕るわけでもありません。
昔から猫は「ネコ、トコ、ヘコがいる」と言いました。それは、鼠を捕る猫をネコ、鳥を捕る猫をトコ、蛇を捕る猫をヘコと言ったのですが、よく見ると特にこれと言った得意技を持っていない猫もいます。
基本的に猫は食べて寝て一日を過ごす無為徒食の動物なのです。しかも唯一の特技である小動物の狩りにしても、何も人間様のためを思ってやっている行為ではなく、自分が喰いたいだけなのです。
また、とても臆病なのでちょっとした物音や異変に対しては、立ち向かうのではなく、一目散に逃げ出すのです。犬も自分より大きな相手に対しては直ちに撃退するのではなく、一定の距離を保ちますが、後退しながらも吠えかけて相手を威嚇します。猫の場合には絶対に相手に見つからないよう、物陰に身をひそめ、息を殺して相手が立ち去るのを待つだけです。ですから、防犯の役割などもってのほかです。
さらに、この点には異論があるのですが、一般には記憶力が悪くて忠誠心に欠けると言われています。ですから、「犬は人につき、猫は家につく」とか「猫は三年の恩を三日で忘れる」とか言われるのです。
したがって、人間との関係の深さに関して犬と猫とを比較するとどうも犬に軍配が上がるようです。この傾向をさらに確かめるために犬や猫に纏わる熟語や諺がどのくらいあるのかを調べてみました。
その結果、中国由来の四文字熟語において、犬に纏わる四文字熟語は「犬馬之労(けんばのろう)」*1、「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」*2、「羊頭狗肉(ようとうくにく)」*3等々多数見つかったのに対して、猫は「窮鼠噛猫(きゅうそごうびょう)」*4にしか登場しませんでした。やはり、中国においては犬の方が遥か重用されていたのでした。
ところが意外にも、我が国の諺においては「女の心は猫の目」*5、「猫に鰹節」*6、「猫に小判」*7、「猫糞(ねこばば)をきめこむ」*8、「猫をかぶる」*9など、猫もかなり健闘しているのです。
無論、犬の活躍は言うまでもありません。すぐに思い浮かぶ言葉だけでも「犬が西向きゃ尾は東」*10、「犬も歩けば棒に当たる」*11、「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」*12、「負け犬の遠吠え」*13、「犬猿の仲」*14などが挙げられます。

さて、日本では犬猫拮抗しているのに対して、中国ではなぜ猫が軽んじられているのか、甚だ疑問です。懸命に考察してみました。その結果、私の推測では、この違いは動物の生息圏と言う地理的条件と長年に亘ってそれぞれの土壌で培われてきた気風の違いに拠るのだと結論しました。
中国はその領地内に虎の生息地を持っていますから、実物の虎を目にする機会がありました。一方、日本人は実物の虎を目にしたものは朝鮮征伐に行った加藤清正くらいのもので、大多数の日本人は猫族と言えば猫しか目にしたことがありません。
だから中国では猫の大親分である虎が「引っ張り凧」であって、虎を含めた猫族として考えるならば、猫族は犬が及びもつかないほど頻用されているのです。また、鄧小平の「猫の種類に白も黒もない。あるのは鼠を捕る猫と捕らない猫だけだ。」という言葉のように、中国人はきわめて実利主義者であります。そのために猫族の中では、強大なパワーを体現する虎を猫族の代表として重用して、猫を採らないのではないだろうか。それに対して、「憐れ」を好み、盆栽を愛でるような大和心にとっては強大で猛々しい虎よりも嫋(たお)やかな猫の方が心を掴んで離さないのではないかと言うのが私の結論です。

結局、犬と猫を比較した場合、人間の生活の中での有用度から言えば、猫は犬には到底及びもつかない存在です。しかし、猫は犬が取って代わることができない特別の役割を持っています。
犬と人間との関係はどんなに濃密な関係とは言っても、所詮ギブ・アンド・テイクの関係ではないでしょうか。犬は飼い主に愛されるために必死に役目を果たしています。また、人間は飼い犬のその健気な忠勤ぶりに信愛の情を覚えているのです。
一方、猫は人間に何の実利ももたらしません。愛情表現も控えめで、どこまでも対等の関係を維持します。結果、飼い主は猫に対して何かを求めるのではなく、そこに存在していてくれることそのもの、そして自分が猫の役に立っているという幸せだけを求めるのです。
つまり、猫は飼い主に、人間同士ではなかなか到達できない、次元の高い、見返りを求めることのない、無償の愛情というものを教え込でくれているのです。猫は愛の伝道師なのです。

このコラムを読んだ愛犬家からは猛烈な批判を受けそうです。愛猫家からは「そんなことは今更言うほどのことではない」と言われそうです。そういう酷評が予想されるにもかかわらず、猫を語りだしたら止まらないのが、猫に魂を奪われた者の憐れな性(さが)なのです。
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*1犬馬之労:自分が主人や他人のために労を尽くして働くことを謙遜して言う言葉。
*2鶏鳴狗盗:小策を弄する人や、くだらない技能を持つ人。つまらないことしかできない人の喩。また、つまらないことでも何かの役に立つことがあることの喩。
*3羊頭狗肉:見かけや表面と、実際や実質が一致しない喩。宣伝は立派だが、実際は粗悪な品物を売る喩。
*4窮鼠噛猫:弱い者であっても絶体絶命の窮地に追い詰められて必死になれば、思いもよらない力を発揮して強い者に勝つこともあるという喩
*5女の心は猫の目:女性の心理は変わりやすく、気紛れだという喩。
*6猫に鰹節:あやまちが起こりやすい状況、危険な状況にあることの喩。
*7猫に小判:貴重なものを持っていても、持ち手いかんでは何の役にも立たないことの喩。
*8猫糞をきめこむ:自分でしたことを隠して人前で素知らぬ顔をしていることの喩。
*9猫をかぶる:本性を隠しておとなしそうに見せかけること。また、知っていても知らないふりをしてとぼけることのたとえ。
*10犬が西向きゃ尾は東:ごく当たり前であることの喩。
*11犬も歩けば棒に当たる:出しゃばると思わぬ災難にあうという戒め。逆に、動き回ってさえいれば、思いがけない幸運に出会うことがあるかもしれないことの喩。
*12夫婦喧嘩は犬も食わぬ:夫婦喧嘩はつまらないことが原因で起こり、一時的なもので、すぐに仲良くなるものだから、他人が心配したり、仲裁に入ったりするものではないということ。
*13負け犬の遠吠え:臆病な者が、陰で空威張りすることの喩。喧嘩に弱い犬は、相手から遠く離れた所から吠えたてることからでた言葉。
*14犬猿の仲:非常に仲の悪い間柄の喩。

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