投稿日:2009年1月26日|カテゴリ:コラム

終戦から数年間、わが国では戦争の最終処理手続きである世界各国との平和条約締結(昭和27年に締結したサンフランシスコ講和条約)に向けて、国連中心の全面講和とするか、ソ連不参加の単独講和とするかという点で国論が二分されていました。
現首相の麻生さんがこよなく敬愛して範たらんと欲している彼の祖父、吉田茂首相は単独講和派でした。これに対して全面講和を強く奨めたのが当時の東京大学総長、南原茂氏でした。南原は一高から帝国大学法学部に進みましたが、一高の校長であった新渡戸稲造の薫陶を受け、大学進学後は内村鑑三の弟子となって、生涯を通して無教会主義キリスト教の熱心な信者でした。戦争中もこの立場から終戦工作に努力しました。
自説に対立して早期の講和条約締結に妨げとなっている南原に業を煮やした吉田は自由党両院議員総会の場で「南原総長らが主張する全面講和は曲学阿世の徒の空論で、永世中立には意味がない。」と強く非難しました。南原もこの言葉に強く反発して、「曲学阿世」という言葉が当時の流行語になりました。

さて、先週は初のアフリカ系黒人大統領、バラク・フセイン・オバマの就任式が世間の関心を独占しました。私も睡魔と闘いながら世紀の一瞬を衛星中継で観ました。オバマの就任演説に感動したのは言うまでもありませんが、ヘリコプターでホワイトハウスを後にするブッシュ前大統領に対して、ホワイトハウス前に集まった群衆が「Hey , Hey , Hey ! Good Bye !」*1という嘲りのニュアンスを含んだ言葉を投げつける光景が印象的でした。
もしブッシュが大統領を1期で終えるか、またはもっと早期に政策の大転換をしていれば、最後にこんな言葉を浴びせられることはなく、有終の美を飾ることができたのではないでしょうか。
あらゆる活動で言えることですが、何かを始めることはそう難しいことではありませんが、上手に終えるということはなかなかうまくできるものではありません。つまり、人生という舞台では開幕よりもいかに幕を下ろすかということが重要だと言えます。
ただ、テキサスに帰ったブッシュは「すべてをやり尽くした。何も思い残すことはない。」と言って、政治の表舞台からの引退を表明しました。今後も世間に露出し続ければ、今以上に晩節を汚すことになると判断したのでしょう。在任中「愚か者」といわれ続けたブッシュですが、存外賢明な部分を持ち合わせていたことを知りました。
我が国では、このブッシュの飼い犬と評された小泉元総理はとうの昔に引退しています。未だに彼の催眠術から覚めやらない一部の愚かな民衆からは熱烈なカーテンコールが聞こえますが、隠忍自重の毎日に徹しているようです。本当に空気を読む動物的な能力にだけは長けた男です。
それなのに、すでに終わったブッシュ、小泉のパ-ティー会場で一人だけ踊り続けている男がいます。ブッシュの命を受けて売国行動を実践した小泉のお先棒を担いでいた竹中平蔵です。
竹中は小泉と共謀してアメリカ資本の要求をことごとく実現して、我が国の社会構造を破滅へと導いた張本人であり、現在深刻化している経済不況やそれに伴う派遣切り、格差の拡大、医療制度崩壊などの問題の根源を創り出した男です。それにもかかわらず彼は臆面もなくいまだにマスコミに露出し続けているのです。
かって竹中とともに構造改革の急先鋒としてグローバル資本主義の導入に力を注いだ多摩大学教授、中谷巌氏のように己の非を率直に認めた上で、今後の対策について論じるのならばいざ知らず、「今噴出している問題は私が推し進めた政策が中途半端で投げ出されているからだ。」といった詭弁を弄し続けています。彼の薄笑いを浮かべながらへらへらと語る顔を見ていると、昔オウム真理教騒動が華やかなりし頃のテレビ画面で同じように詭弁を弄していた男を思い出します。あまりに屁理屈が巧みなので「ああ言えば上祐」との流行り言葉を生んだ上祐史裕です。
「理屈と膏薬はどこにでもつく」と言いますが、どんな証拠を突きつけられても蛙の面に小便で、論点を微妙にすり替えて言い抜ける竹中の厚顔無恥さには呆れてものが言えません。

学問とは過去の観測、実験例を分析して、そこから一定の法則を見出し、将来の予測を推論します。したがって、観測例や実験例が多いほどその理論の精度が増します。しかし、理論と言ってもしょせん人間の考えた理屈ですから将来の事象を確実に言い当てることはできません。
医学においても新種のウィルスが出現すると、それまでの微生物理論や免疫理論が通用しなくなることがあります。AIDSウィルスの出現などがそのよい例だと言えます。
中でも経済学は産業革命以降に生まれた、他の分野に比べて歴史の浅い学問です。ですから、医学や天文学などに比べて観測例、実験例が遥かに乏しいのです。理論といってもその実証性は極めて低く仮説にすぎません。
しかも、実体経済は人間の心理に大きく左右されますから不確実性がつきものなのです。そこを補うべく巧みに取り入れられているのが数学です。数字や数式は人に対して強く「真実」を暗示します。だから、専門家は理論とはあくまで畳の上の水練であることを知っているのでしょうが、難しい数式を駆使した経済理論は一般の人々を過度に信用させてしまうのです。そしてその仮説を金科玉条とした国家運営は現実社会に適応せずに失敗します。
必要に迫られなければ働かないという人間の本性を見落とした共産主義国家の末路、一方人間がとどまるところを知らない強欲な生き物であるということ無視した新自由主義経済の破綻がそのことを実証しています。
学問とは試行錯誤の連続ですから、ある時点で考えられた理論が将来の事象にそぐわない点が出てきても、その事実を素直に認めて、理論上の欠点を補修、発展させることが責務です。占い師ではないのですから、予測が当たらなかったこと自体に責任を取る必要はありません。
しかし、その理論が真実であるかのように吹聴したり、その理論で世の中を導いた実践者はその責を問われなければならないはずです。

南原総長の行動が正しかったのか否かは未だ評価が分かれるところですが、吉田茂の「曲学阿世」の誹りは不当なものであったと思います。なぜならば、彼はすでに東大総長の地位に就いており、主張を通すことで失うものはあって得るものはありませんでした。彼はキリスト教に基づく信念から時の総理大臣に真っ向から異を唱えて行動したわけで、世間に阿って私利私欲のために行動したわけではありません。
翻って竹中平蔵はどうでしょう。彼は一応、学者という肩書ではありますが、実際には経済理論を弄して立身出世を果たして政治を実践しました。彼は数式のマジックを使った経済理論と巧言の術を武器に参議院議員、大臣という地位を得たのです。したがって自分が社会に及ぼした影響に対してはきちんと責任を取らなければなりません。
然るに竹中は今書いてきたように反省するどころか、恥知らずにテレビに出てはギャラを稼ぎ、最近はなんと「こんな僕でも教授や大臣になれる」というキャッチコピーで勉強法の本まで出版して印税稼ぎをしています。
さらに、住民税脱税事件*2、郵政民営化広報チラシ事件*3、ミサワホーム売却事件*4など、知識や地位を利用した金にまつわる醜聞も後を絶ちません。
「曲学阿世の徒」とはまさに竹中平蔵のためにある言葉なのです。
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*1:アメリカのスポーツ観戦の場で、勝ったチームの応援団が競技場を去っていく敗者に対して浴びせかける言葉のようです。
*2:1993~1996年の間、日本とアメリカに住民票を移動させることによってこの間の日本の住民税を支払っていなかった。法学者の北野弘久(日本大学名誉教授)は住民税脱税犯(地方税法324条1項)における偽計行為に該当すると断じている。
*3:2005年、内閣広報室が郵政民営化をアピールするための『郵政民営化ってそうだったんだ』という折り込みチラシの発注に関し、設立して1年にもならず実績もない有限会社(社員が二人)に1億5千万円(チラシ1500万枚)もの巨額の発注を出したこと、その会社の社長は竹中の政務秘書官と親しい間柄であり、かつ会計法により160万円以上の広報、印刷物などは一般競争入札を法的に義務づけられているのにもかかわらず随意契約で作られたことなどの問題点が指摘された。
*4:2004年から2005年にかけて経営不振に陥っていたミサワホームを産業再生機構の管理下に置いて結局トヨタ自動車に売却した過程において当時金融担当大臣であった竹中平蔵とミサワホーム東京社長であった実兄の竹中宣雄が他のミサワホーム経営陣の反対を押し切ってことを進めたとして職権濫用が指摘される事件。
★現在、かんぽの宿の売却で不透明性が問われているオリックスの宮内義彦、現日本郵政社長(当時三井純友フィナンシャルグループ社長)の西川義文の他、トヨタ自動車元会長、元経団連会長の奥田碩、セコム取締最高顧問の飯田亮は小泉政権時代に竹中とタッグを組んで利権を貪った政商と言われている。

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