投稿日:2009年1月19日|カテゴリ:コラム

2007年3月に書き始めたこのコラムが今回で100編目になります。当初は担当者から、「先生の得意とする病気や治療に関するミニコラムを書いてみてはいかがですか」という勧めを受けて書き始めたのです。
ところが何篇か書いた頃、他の医療機関のホームページを覗いてみると、病気や治療の解説はもうすでに多くの医師が書いていて、私よりもよほど立派な解説が少なくないことを知りました。はてさてどうしたものかと思案しているところへ、私に発想の転換を促してくれたのが柳沢厚生労働大臣でした。
彼の「女性は産む装置」という発言が多くの国民から非難を受けたのです。私は柳沢さんに対するバッシングは言葉じりを捕らえたヒステリックなものであると考え、急遽このコラムを通じて持論を展開することにしました。
大学で研究に携わっていた頃には論文を初めとして記録に残る形で自分の主張を発表する多くの機会がありましたが、開業医となってからは診察場面、家族や友人との会話の中で自説を論じることしかありません。残念なことにその主張はしゃべった瞬間に消えてしまいます。しかし気が付けば、これまで自分が学んできたこと、経験してきたことを何らかの形で記録しておいてもよい年齢になっています。それならば、このコラムを病気に関するテーマに限らず、常日頃自分が考えていることを発表する場にしようと考えたのです。そして、毎週必ず1編書くことを決意しました。

さて、コラム開始から2年弱しか経ちませんが、この短い間にも世の中では実にさまざまな出来事、変化がありました。中国産の食品からの有毒物質検出、ミートホープの食肉偽装など食の安全の危機、安倍、福田と相次ぐ首相の辞任劇、サブプライムローンの破綻に端を発したリーマンブラザーズ倒産、世界的金融危機、北京のオンピック、初の黒人米大統領選出等々です。我が国の医療界に目を転じれば、後期高齢者医療制度やメタボ健診が開始されました。
こういった出来事に対しても、その都度私なりの意見を書いてきました。しかし、私は自分自身それほど大局観を持ち合わせているとは自惚れておりませんから、あくまで個人的な偏見に満ちた意見にすぎませんし、現時点では見えない部分も大きいと思います。それに、すべての事柄に対する総括は数十年の後にしかできないではないでしょうか。
換言すれば、私たちは目の前の出来事だけに目を奪われるのではなく、過去の出来事を風化させることなく、折にふれて思い起こし、総括するべきです。過去に学ぶことこそ現在の問題の解決の糸口だからです。

先日、某民放が40年前の1月18、19日に行われた、東大安田講堂を舞台にした全学共闘会議(全共闘)と警視庁機動隊との攻防戦をセミドキュメンタリードラマとして放映しました。
番組では当時の実写映像をふんだんに使っていましたから、あの当時の記憶が鮮明に呼び起こされました。現役での大学受験に失敗した私はその時、受験勉強をしながら複雑な思いで、この争いの実況中継をテレビで観ていました。
あの事態に直面する私には二人の自分がいたからです。一人の私は封鎖が解除されることを願っていました。なぜならば、全共闘による大学封鎖が解除されなければその年の東大の入学試験が取り止めになるからです。一年間の浪人生活を無駄にしたくなかったのです。しかし、多くのデモにも参加したことのあるもう一人の私は、学生運動の象徴である東大に立て篭もる学生たちに共感し、彼らの善戦を祈っていたのです。この2人の自分に加えて、現役入学を果たしていれば、自分もあの中にいたかもしれないという悔しさが混じっていたことが、さらに複雑な心境にさせていたのかもしれません。
ドラマを観終わった後に、一緒に見ていた子供から「すごいな。本当にあんなことあったの?今の学生だったら絶対にあんなことやらないよ。どうしてあんなことしたの?あの人たちはその後どうしたの?」と質問されました。
ところが、あらためてあの学生運動について正面から問われると、私はどうしても上手に説明できないのです。特に、火炎瓶を投げて檄を飛ばした人たちがその後どういう生き方をしたのかという問は私にとっては厳しい質問です。なぜならば、私自身、大学生になっても医局制度反対などと言ってお飯事のような活動はしたものの、早晩医師になることに専念して、過去の自分を切り捨ててしまったからです。そういったことから目をそらして生きてきたからです。
こういうその後の人生は何も私だけではないはずです。日本の大学の象徴である東大安田講堂が陥落した1969年1月19日。この日を境に、団塊の世代の成長とともに、あれほどに高まった学生運動は急速に凋落の一途を辿りました。多くの若者は自分の中であの出来事は大きなお祭りであったと言い聞かせて、何事もなかったかのように日常的な生活に戻ったのです。
一部取り残された者は行き場を失い、さらに暴力的な行動に走り、過激派として社会全体から厳しく糾弾されるようになりました。彼らのそうした行動によって社会に留まることを選択した多くの若者は、学生運動そのものを記憶のなかからより懸命に消し去っていったように思えます。しかし、40年経た今、もう一度あの学生運動に学ぶべきことはないのか考える必要があるのではないでしょうか。

朝鮮戦争、60年安保、ベトナム戦争、70年安保という流れの中で発生し成長した学生運動のすべてを検証するには多くの人と多大な労力を必要とします。とてもこのコラムで私一人ができる作業ではありません。ですから一側面だけに限定して述べてみたいと思います。
あの当時私たち若者を突き動かしていた熱病のようなエネルギーの基の一つはベトナム戦争で累々と重なる屍の上に成り立っていた日本の平和とその戦争によって利益を貪る社会体制に対する儀風であったように思います。そして、他人の痛みを自分の痛みとして感じること、他人の不幸を傍観せず、解決するために行動することが正義の実現だという考えが充満していました。社会的な物事に自分の態度を旗幟鮮明にしない者は日和見と言われて軽蔑されました。
加えて、自分たちが力を合わせて行動すれば、すぐにでも世の中を変えることができるという性急で楽観的な自惚れに支配されていたように思います。
学生たちは「義を見てせざるは勇無きなり」という義侠の心意気で、梁山泊に見立てた安田講堂に立て篭もり、敗北を覚悟で国家権力に立ち向かったのです。陥落は致しかたないとしても、自分たちが投じた一石が大きな大衆的なうねりを巻き起こすものだと信じていたのに、その期待までもが裏切られました。
国家の情報管理によるところも大きかったと思いますが、その年の東大の修学試験が行われなかったことを除けば、世の中は何事もなかったかのように日常活動に戻りました。このことによって若者は底知れぬ挫折感を味わいました。
こうして多くの若者はその後それまでとは真逆の生き方を選んで行きました。人間の行動はほどほどを保つことが難しく、いつの世も社会は右へ左へと大きく振れ過ぎます。
私たち世代の学生運動もこの例にもれず、あまりにも熱し過ぎた行動であっただけに、その反動も大きく、社会に対して行き過ぎた無関心が蔓延してしまったように思います。
現在、日本人の多くはイラク、パレスチナ、コソボで繰り広げられている殺戮は別次元の出来事。国内で広がる格差、急増する貧困者の問題にも我関せずの態度をとります。他人の痛みを知ろうとしない嫌な風潮がすっかり根付いてしまいました。
しかし、こんな風に偉そうに現代批判をしている私ですが、本当は私にはこういう風潮を声高に批判する資格はないのです。今の「君子危うきに近寄らず」を良しとする日本人の生き方を導いたのは、実はあの当時変革の熱病に冒されていた私たちの世代にほかならないからなのです。

文頭で、コラムを書き始めてからの2年間について総括することはできないと言いましたが、確実に言えることが一つだけあります。それは私に残された時間が2年短くなったということです。
私はあれから40年の経験を積んだ今、その経験を活かした方法で今一度行動しなければいけないと考えています。現在、具体的にどのように行動するべきかを模索中ですが、とりあえずはこのコラムを書き続けようと思っています。。
「生きることは呼吸することではない。行為することだ。」*1
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*1:Jean-Jacques Rousseau(ルソー)(1712年6月28日~1778年7月2日)の言葉。ルソーはフランスの哲学者。政治思想家、教育思想家、作家ではフランス革命や以降の社会思想に多大な影響を与えた。

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