投稿日:2009年1月12日|カテゴリ:コラム

睡眠に関するコラムを数回にわたって書きました。私が所属していた大学の精神医学教室では当時、佐々木三男助教授を中心に睡眠に関する研究が盛んでした。私はこの研究グループに所属してはいませんでしたが、時々研究のお手伝いをしたために睡眠に関する多少の知見を得ることができました。睡眠について多少のことを語ることができるのはこのお陰です。
佐々木先生のライフワークは睡眠に対する時差の及ぼす影響(ジェット時差症候群)、いわゆる時差ボケの研究でした。この研究のお手伝いで何度か海外に同行したことがあります。この中で一番私の記憶に残っているのは被険者(実験材料)としてコペンハーゲンに行った時のことです。

当時は現在のような携帯用の脳波計などありませんでしたから、一番コンパクトな脳波計でも洋服の整理箱くらいの大きさがあり、重さは数10kgもありました。これをキャリアーで引いてコペンハーゲンまで行ったのです。
ジェット時差症候群の研究は乗務員の労働環境と密接な関係をもっている症状です。このために、この研究には日本航空の協力がありました。協力というのは往復の運賃がただであることです。しかも客室に大きな精密機器を持ち込むこともあって佐々木先生と被険者の私の座席はファーストクラス。私はこのファーストクラス目当てに被険者に名乗りを上げたようなものです。ファーストクラスなんてとても自腹では体験できないからです。
佐々木先生は日本航空の社医ですからファーストクラスが与えられます。私が厚遇を受けたのは、何も偉いからなのではなく、実験動物として健康を保たなければならないからです。したがって脳の状態に影響するような行為は厳禁です。せっかくファーストクラスの美味しい機内食が供されると言うのに到着後まで残ってしまうような深酒は厳禁。また、乗務員に対する時差の影響を知る目的なので、彼らの行動リズムに近づけなければならず、ぐうすか眠って行くこともできませんでした。

デンマークの首都コペンハーゲンは11世紀くらいから漁港として利用されていましたが、12世紀半ばから商業の中心として発展した古い町です。日本とは時差が8時間あります。
私は時差研究の被険者ですから、到着と同時に現地時間での生活をしなけれ
ばなりません。ホテルで荷ほどきして機器を設置した後、夕食までの間、佐々木先生と検査を担当するスタッフとは夜に備えて仮眠に入ります。日本時間だとすでに深夜になるので私も眠たいのですが、我慢して夜の更けるのを待ちます。
9時頃になると頭に脳波、顔に筋電図の電極、胸には心電計、さらに肛門には深部体温を測定するためのプローブを挿入して、10時には一人で眠ることになります。私が寝ている間、佐々木先生と実験スタッフの方は一睡もせずにポリグラフの機械とにらめっこです。夜が明けて目覚めると電極を外し1回目の実験終了です。
翌朝私は比較的熟睡して元気一杯ですが、徹夜で私のポリグラフを記録していたスタッフの方々はお疲れです。彼等は朝食の後、先ほどまで私が眠っていたベッドルームで睡眠をとるのです。研究費に限りがあるために、研究のためだけの部屋を借りる予算がありません。1室は被険者である私と研究スタッフが昼夜交代で使用するので、彼等が眠りを取る昼間は、私は部屋を明け渡して街で過ごさなければならなかったのです。
しかも、昼寝をしてはいけないし、遊ぶお金が潤沢にあるわけでもありません。必然的にひたすら街を歩き回るしかありません。コペンハーゲンは伝統のある小奇麗な街ですがパリやロンドンのような巨大な都市ではありません。歩き回るにはうってつけなのですが、1日もあれば人魚姫の像(リトルマーメード)、チボリ公園など、おおよその所を制覇してしまい、他にはこれといって行く所がありません。
それに、私はあくまで被険者として訪れているので1時間おきに体温を測定しなければなりません。さすがに肛門からの深部体温測定は勘弁してもらいましたが、できるだけ高い精度で体温変化を把握するために婦人体温計を使って口腔内温度を測ることになっていました。
時刻を見計らいながら公園を探して、できるだけ人の少ないベンチで婦人体温計を咥えるのです。人混みを歩きながらであったり、土産物屋で値下げ交渉をしながらこの行為をしたならば、相当に怪しい者と訝しがられます。
ですから、なるべく人通りの少なく、かつ公園の多い通りを選んで旧市街を彷徨い歩き続けたのですが、2日目にはもう時間を潰すところが無くなってしまいました。そこで目に飛び込んできたのがポルノショップでした。
北欧諸国は昔から我々の本能行動に対する規制が寛大で、無修正の「あの場面」が映っている写真集や8mmフィルム(当時はまだビデオが主流ではなかった。もちろんDVDなどは開発もされていいなかった。)を堂々と売っていたのです。デンマークも例外ではなく、こういった物を専門に売っている、いわゆるポルノショップが軒を列ねていました。
日本ではまだ画面に陰毛が映っているだけで発行禁止になっていた時代でしたから、男子たる者、北欧を訪れたのにポルノショップに行かないということは、天ぷら屋に行って刺身だけ食べてくるようなものです。ポルノショップでの立ち読みは眠気覚ましになりますから、趣味と実益の一石二鳥です。当然、私は散歩のスケジュールの最初にポルノショップを組み入れていました。
しかし、コペンハーゲンでも日本と同じように立ち読みは嫌がられますし、鑑賞しがいのある高価な写真集はコペンハーゲンでもビニール袋に密閉されて、日本と同様に「ビニ本」になっていますから、立ち読みができません。ですから、1軒のポルノショップでの立ち読みではそう長い時間を潰すことができません。ポルノショップの梯子を試み、ほとんどのポルノショップは制覇しましたが、どの店も品揃えは似たり寄ったりですから立ち読みだけでは限界があります。
この方法だけでは、この先の研究に支障をきたしてしまう。何か眠くならない時間潰しはないものかと思案しながら、ホテルからそう遠くない旧市街の1軒のポルノショップで立ち読みをしていた時のことです。
店の奥を覗くと、小さな小部屋があることに気付きました。よく見ると8mmフィルムの試写室です。そっとドアを開けてみるとソファがいくつか置いてあり、目の前のスクリーンにポルノフィルムが上映されていました。
店の親父に尋ねると、数百円の料金を払って観たいフィルムを指定すればよいことが分かりました。一日中歩き回っていたので、足が棒のようになっていた私は早速料金を払ってソファに座りこみました。
適度な座り心地のソファとスクリーン上の俳優さんたちの熱演のお陰で眠気に襲われません。すっかり気に入った私はここで時間を潰すことに決めました。
定時が来ると婦人体温計を咥えて体温を記録しながらフィルムを鑑賞し続けました。体温計を咥えながらポルノ映画を見続ける私の様子を訝しく思ったのでしょう。5、6本目のフィルムを観ていると店の親父が入ってきて、「お前は何をしているのだ」と尋ねてきたのです。
たどたどしい英語で理由を説明すると、笑いながら、「日本人の客はたくさん来るが、お前ほど好きな奴はいない。よほどの変態かと思っていた。そういう訳だったのか。フィルムを選ばないなら、後はただでそこに居ていいよ」と言ってくれたのです。
ポルノショップがこれほど研究に役立つところであるとは思ってもみませんでした。翌日からは、歩き疲れるとその店に行き、5本分の料金を払って夜まで時間を潰させてもらいました。そればかりか、親父からコーヒーまで御馳走になって、帰国の日まで規則正しい生活のリズムを保つことができました。
帰国すると昼は病院業務に携わりながら夜は再び数晩に渡ってポリグラフ測定し、東回りの旅の影響を検討しました。

人間が西回りの旅で見られる時間が遅れる時差には比較的早く適応できるのに、東回りの旅における時間が早まる時差にはなかなか適応できないという事実は、それまでにも経験的には分かっていました。佐々木先生の研究チームは先ほど述べたような研究を何回も繰り返して行い、ジェット時差症候群のメカニズムについて科学的な証明をしたのです。

私のコペンハーゲンでのデータも時差の影響の解明に少なからず貢献したと思われます。しかし、残念ながら佐々木先生の論文の中で、研究協力者としてポルノショップの親父の名前は載っていません。

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